天智天皇の死地
先日,天智天皇陵の立地が謎であると書きましたが,その後あっさり判明しました。大化の改新の同志である中臣鎌足は,山科(山階)に陶原館という別荘を構え,天智天皇が近江の大津宮に遷都するとそこを本宅としました。669年,鎌足は山科の御猟場での狩りの最中に馬から転落して,死の床に伏します。先掲の天智天皇の陵墓周辺の緩やかな等高線と背後に広がる山林を見ると,御廟野がまさにこの御猟場に当たるのではないかという考えが浮かびます。天智天皇は陶原館に鎌足を見舞い,大職冠と藤原の姓を与えました。この藤原氏誕生という歴史的できごとの起こった地は,まさに天智天皇陵から南東へ約1kmの場所に当たります。
天智天皇の死因には諸説ありますが,平安時代の「扶桑略記」によると,天智天皇が馬で山科まで遠出をし,山の中に入りそのまま帰って来なかった,遺体が見つからないのでやむをえず靴が残されていた場所を陵墓としたとあります。天智天皇が没したのは鎌足の死のわずか2年後。靴が落ちていた山科の傾斜地は天智天皇にとって"縁もゆかりも"非常に深い地であり,従者を伴わない発作的に見える遠出には鎌足に対する追慕の念,こじれた後継問題への助言を亡き鎌足から得たいといった思いがあったのではないでしょうか。となると,この背後の山地一帯のどこかに,天智天皇の遺骨が今も眠っているかもしれません。
しかし,天皇の生死が不明で靴しか見つかりませんでした,で済まされるわけがありません。迅速に葬送儀礼ならびに皇位継承の適否を判断しなければならないので,徹底的な捜索を行うはずです。この行方不明という逸話が謀殺説を生む要因となったと思われますが,一方で本当に行方知れずとなったため,いきなり後ろ盾を失った大友皇子があわてて大海人皇子に先制攻撃をしかけることになったとみることもできます(壬申の乱)。
大津宮において病死したという通説を採るとどうでしょう。かつて陶原館を見舞ったときに,このいかにも古墳造営に適した傾斜地を目にした天智天皇が,自らの墓の候補地として記憶に留めたと考えればごく自然な説明となります。
これら山科に関する逸話は,蘇我馬子の墓について調べている中で行き当たりました。写真の石舞台古墳を訪れたのは数十年ぶりで,修学旅行当時の印象は「巨大で危なっかしい石造物の内部まで見学することができる」といった物珍しさのみで,なぜこれが古墳と呼ばれるのか考えを巡らせることもありませんでした。かつて古墳の上に盛られていた土は風化ではなく人為的に運び去られ,石室の上部が露出したうえ,内部の石棺も持ち去られた結果,現在の姿となった,というのがその経緯でした。盛土は近世に農民たちが土壌として利用したという説,石棺は改葬,もしくは墓暴き・盗掘という説があります。
むき出しとなった天井石が平らで舞台のように見えるため,古くから「石舞台」とよばれてきました。 石室内に残された平らに加工した凝灰岩の破片から推定して,安置されていたのは家形石棺と考えられ,須恵器や鉄のやじり,金銅製金具も残存していました。飛鳥時代の古墳から仏具である銅鋺が出土している例から見ても,仏教を強力に推進した蘇我馬子の墓にも仏具が副葬された可能性が考えられますが,改葬先がみつからないかぎり確かめようがありません。盗掘でないとすれば石棺を暴いたのはだれなのか,中大兄皇子を軸として考えてみたいと思います。