吉野ヶ里石棺文字の年代表記

 それでは没年を記す数字について考えてみます。多くの数字の表記は,まず線や点の数を増やしていくことから開始されますが,くさび形文字では1と10の2種類のみの数字を使って,すべての数を表します。吉野ヶ里の石版ではc板に刻まれた記号の大半を占めるのが-と+(または×)なので,これらに数字の可能性を感じますが,配置があれだけランダムでは数列の表しようがありません。
 数の存在については,むしろa板の方に可能性を感じます。a板は全体が数字の並びのように見え,配置もc板ほどランダムでなく,斜め線により文字列が2分割されている点にも意味を感じます。
 b板上部の密度の高い区域には被葬者の享年,没年月が記されているはずです。その1か所ないし2か所はどの部位でしょうか。239~249年にかけての中国の元号,景初・正始の字形を探してみましたが見当たりません。邪馬台国の重要人物の石棺に刻む没年としては,中国の元号よりも東アジアに広く普及した暦の十干十二支を用いるほうが自然ではないでしょうか。日本に十干十二支が伝わったのは古墳時代とされているので,ここで干支が見いだされると大きな発見となります。仮に卑弥呼の没年とされる247年あるいは248年を干支に当てると,丁卯あるいは戊辰になります。十干十二支に用いられる漢字は以下の22字です。
亥 卯 丑 乙 己 午 庚 甲 子 申 辛 壬 辰 丁 寅 酉 丙 戊 未 巳 戌 癸

 ①が「戊」,②が「寅」だとすれば,3世紀では258年となります(なお戌と寅の組み合わせはない)。寅の字を含む干支はすべて寅の字が末尾にきますが,②の左の半端な位置にくっついている「口」が何なのか,悩ましいところです。乙,己,巳といったあたりの異体字なのでしょうか。しかし寅の直前に乙,己,巳が付く干支はありません。そこで,右端の②と口を合わせて一つの干支ととらえると,b板の右側を上として続け字の「甲午」の異体字のようなものが見えます。文字づら的には説得力があり,これは214年,273年に当たります。ただし先日述べた,b板の左端の③を「蔑」と読む考えにかなり可能性を感じているので,b板は上図どおりの向きでながめたいところです。
 それでは戊と同じようなたれの構造をもつ「辰」はどうでしょう。同じように辰の字もすべて末尾につくので,②・①の順に「甲辰」と読んでみました。甲辰は224,284年に当たります。
 すきへんの姿を認めていた④の箇所ですが,これを「辛」の異体字と見立てて,その右の⑤を「丑」に当て,「辛丑」と読んでみました。これは3世紀では221年,281年に当たります。しかし,「蔑」の右隣りにある④・⑤周辺は大仰に表現されているので,年代表記ではなく人名の部位に当てたいところです。以上,数少ない候補の中から文字の配置,方向を考え合わせると「戊寅」が最も有力といえます。しかし文字づらにあまり説得力がないので,消去法による消極的結論としておきます。

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