日本得魂命と土蜘蛛
8類似噴の標準規格となったのは佐紀陵山古墳ではなく、銚子山古墳であるという可能性もあります。日葉酢媛は神功皇后のように政治権力をふるった女性ではないので、地方の豪族がその威を借る必要は生じません。古墳時代中期の一時期において、古墳の標準規格となったかもしれない丹波がどのような様子であったか、建諸隅命の子と伝えられる日本得魂命の逸話にかいまみられます。(なお「竪系図」では3〜18代が省略されているため、日本得魂命の名はありません。この世代は実質的には尾張氏の系図、14〜22代は海部氏の系図でこれら並列する二氏の系図を直列につないだものと見る説もあります)。
「丹後風土記」によると、丹波の青葉山中で狼藉を働いていた土着民の土蜘蛛を平定するため、崇神天皇は彦坐王(日子坐王)を派遣しました。彦坐王は開化天皇の第三皇子で、崇神天皇の弟にあたります。かつ日葉酢媛の祖父にあたり、8類似墳のうち膳所茶臼山古墳に比定される人物です。彦坐王は、土蜘蛛の長である陸耳御笠らを追った先、蟻道郷の血原で土蜘匹女(女性の長と思われる)を討ちました。降伏を決意した陸耳御笠でしたが、日本得魂命が川下から追ってきたため川を越えて逃れました。そこで官軍は楯を連ねて猛烈に矢を放ち、土蜘蛛の多くは死体となって川を流れていきました。戦闘の経緯としては、朝廷から派遣された彦坐王の官軍に、地元丹波の長である日本得魂命が援軍として土蜘蛛の討伐に貢献したという流れになります。
「葛城の土蜘蛛は神武天皇に滅ぼされた」という逸話を思い出しますが、民族としての土蜘蛛は絶滅することなく各地で根を張って生息していたようです。後生においては用明天皇の時代、土蜘蛛が大江山(丹後半島の付け根)に住み、英胡・軽足・土熊という三人の頭領が多くの"鬼"を従え、悪の限りを尽くしていたとされます。このときも朝廷は、用明天皇の皇子(聖徳太子の弟)である麻呂子親王を将とする官軍を派遣し、激闘の末にこれを平定しました。3人の頭領のうち土熊だけは生け捕られ、生き残った他の土蜘蛛とともに助命を嘆願したため、親王は交換条件として七つの薬師如来を祀る寺の建立を命じ、土熊たちはその約束を果たしたということです。
舞鶴市吉坂上の田口神社は、この地を開発した日本得魂命が伊勢の豊受皇大神の分霊を勧請し、校倉を建立したのが始まりとされます。また、のちの天武天皇が、土中蛛を成敗した日本得魂命の功績を称えて建立したものとも伝えられます。日本得魂命の代、海部氏が政治を行う府は、丹後半島から対岸の舞鶴湾東岸へ移ってきたのでしょうか。笠水彦命以降、日本得魂命に至るまでの要所を地図にまとめてみました。