War Memorial Opera House

 所用でサンフランシスコを訪れ、道中で何かしら史跡を探さねばと思ったところ、まず浮かんだのが "サンフランシスコ講和会議" です。War Memorial Opera Houseは1932年に開業した歌劇場で、第一次世界大戦の従軍者を記念して「戦争記念」という名が冠せられました。収容人数は3000人を超え、その規模と近代的設備から当時、世界最上級のオペラハウスと評されていました。1951年9月4日から5日間、この歌劇場で連合国52か国の代表が出席して対日講和会議が開催され、日本からは吉田茂首相ほか全権委員5名が出席しました。最終日の8日に調印された日本との講和条約がサンフランシスコ平和条約です。終戦前の1945年6月、連合国が国連憲章に署名し国際連合の発足を決定したサンフランシスコ会議が開かれたのもここです。

戦争記念歌劇場

 1945年に始まった占領の初期から日本政府は講和の道を探り、連合国と折衝を進めてきましたが、冷戦構造が鮮明となるにつれて講和は先送りされ、南北朝鮮、東西ドイツが成立した後も日本の処遇は定まりませんでした。その潮目を大きく転換させたのが1950年6月に始まる朝鮮戦争です。アメリカは日本に対して,社会主義勢力の拡大をくいとめる防波堤としての期待を強め、日本を西側陣営の一員として復興させる方向へ舵を切りました。1950年9月、アメリカは対日講和の意思を明確に示して非公式協議を開始、日本側は当時首相兼外相であった吉田茂が中心となり、安全保障や東側陣営との講和といった困難なテーマに対する方針を詰めていきました。
 講和会議は冒頭から、「これは日本との平和条約調印のための会議である」とするアメリカと、草案についての議論を繰り返して抵抗戦術を取ろうとするソ連との間で、激しい応酬が繰り広げられました。このとき議長となったアチソン米国務長官は、イギリスなどとの間で事前に打ち合わせた議事規則に沿って会議が調印のみに向かうよう進行し、ソ連が異論をはさむたび手際よくこれを処理しました。鉄壁ともいえるこの議事規則はソ連の要求をことごとくはねつけ、会議は西側諸国の圧勝となりました。 
 日本側は、当初英語で行う予定だった吉田首席全権の受諾演説を日本語に変更したうえで、これを外務省連絡局次長が英訳しました。この結果アメリカのラジオやテレビでは次長の流暢な英語のみが放送され、議場の各国代表のみならず広く米国民に好印象を与えました。講和会議は8日の調印式をもって幕を閉じ(ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは調印を拒否)、翌年の条約発効により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」は終結し、日本は敗戦国としての立場ではなく、連合国の盟邦という対等の立場で主権の回復を勝ち取りました(外務省資料「Ⅱ サンフランシスコ平和会議」他による)。

右手奥の扉を開けた先がホールと思われる。吉田茂首相が満を持して入場したに違いないまさに同じエントランスに自分も立っている。


 同じころ、ソ連の強制収容所に抑留されていた日本人はどのような生活を送っていたのでしょう。ハバロフスク近郊の第21分所での抑留生活の様子が、瀬島龍三著「幾山河」に記されています。朝鮮戦争開戦に際して、ソ連政府は「日本人の一般的軍事俘虜は1949年に全員本国へ帰還させた」と発表します。つまり残っている抑留者はすべて戦犯であり、特赦を受けないと出国できない、特赦の決定には平和条約の締結が必要であるという立場を明らかにしたのです。冷戦が緩和しないかぎりは政治的人質が解放される状況とはならないであろうと、抑留の長期化を覚悟する空気が収容所内に流れました。
 約800名を収用する第21分所では、帰国に備えた法律・数学・政治などの学習活動が行われ、演劇団、楽団、絵画サークルが結成されていました。1951年の初めには捕虜による元旦の催しが実施され、作業場から持ってきた石膏を鏡餅に仕立て、楽団が「年の始め」を演奏するなかニシンの尾頭付きや粟の雑煮がふるまわれました。この年は収容所の様子に関する記述が少なく、比較的もめごとの少ない小康状態であったと思われます。小康といってもふだんの気温は-20℃、冬には-40℃にも達する屋外での鉱山や農地の開発、森林伐採、道路の建設などの強制労働に従事する過酷な日々です。
 瀬島氏に対しては、ソ連の間諜だったのではないかという疑惑をかける向きがありますが、そもそも氏はゴルバチョフ政権の下で名誉回復(復権)され、一転して2023年には、大戦中の日本の「戦争犯罪」を追及する姿勢を強めるプーチン政権により名誉回復措置が取り消された人物です。図らずもこの2点において、旧ソ連の諜報機関の手によって身の潔白を証明されたようなものです。氏の文章は事態の好転も苦境も同じ筆致で、ことさらに語気を強めず描写し、自らの功績に対しては控えめに、至らなさに対しては率直に自戒されています。その筆圧のぶれなさには、自らの正体を覆い隠そうという狡猾さではなく、客観的に歴史を叙述しようとする誠実さが感じられます。
 また、ラーゲリにおいては民主運動(赤化運動)に対抗する"反動勢力"の中心人物であり、その人望の厚さは帰国後の多くの捕虜仲間による証言からもうかがわれます。瀬島氏は関東軍参謀という前歴から、周囲に請われて日本人団長に就任するわけですが、団長として上記のような文化活動、帰国後の生活に備えた学習活動、金銭収入の増収による食生活の向上といった収容所改革を推進するとともに、ソ連からの度重なる労働強化の要求に抵抗した結果、1952年3月にはソ連の将校から団長解任を言い渡されることとなります。
 1953年から捕虜の大量帰国が始まりますが、1954年になると死亡者が増え、映画「ラーゲリより愛を込めて」のエピソードもこのころ生まれました。一方でソ連側の間諜として働いていた捕虜の中には、ソ連に残る道を選ぶ者も現れます。1955年にはドイツ人捕虜の全員が釈放される一方、ロンドンで日ソ間の外交交渉も進み、国際情勢の好転がみられました。このころ第21分所で劣悪な処遇に堪えかねた捕虜たちによる作業場へのサボタージュが自然発生し、2か月半にわたるハンストの末、待遇の改善が実現しました。このハバロフスク事件が引き揚げ者によって日本に伝えられると、抑留者家族の間に早期の日ソ国交正常化を求める声が噴出しました。抑留者からは自分たちの帰国を急ぐことで北方領土返還交渉に影響を与えることを懸念する声も上がりましたが、鳩山一郎内閣によるソ連との交渉は急速に進展、1956年10月の日ソ共同宣言調印によりシベリア抑留者の集団帰国が年内に完了します。サンフランシスコ平和条約による独立回復と、日ソ共同宣言に起因する国際連合加盟を通じて、日本は敗戦・占領から実に11年を経て本格的な国際社会への復帰を果たすこととなりました。

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