キングダム考察 69巻 桓騎には肥下戦で那貴の一家復帰に現れた「生き様」と引き換えに飛信隊に託したものがあった
【考察その31】
上記の記事に続く、桓騎考察の後半になります。
今回は「怒り」の中で築き上げた「桓騎の生き様」についての考察です。
そして上の那貴考察も含めた一連の記事のまとめ記事にもなります。
桓騎の生き様は多くの側面を掘る必要があり、
その一つの那貴に関する考察の続きも入れたこともあり
ハグオマージュに次ぐ最長記事になってしまいました。
でもこの順番で、どの章も抜かさず読んでいただきたい意向で、
どうしても記事が分割できませんでした、ごめんなさい。
多めに区切って、
考察一つあたりのボリュームはできる限りコンパクトにしたつもりです。
区切って読んでいただければ読みやすい(?)と思いますので
どうかお付き合いいただければと思います。
考察:桓騎の「悪」の定義と一家の位置付け
桓騎は、信とは黒羊戦で、政とは平陽戦で十万人虐殺後、
それぞれと「中華統一」について意見を交わしました。
信への以下の発言、
政への発言
で察するに、
「残忍度合い」如何よりも「死人数」が多いと「悪」のレベルが上がる、
と言うのが桓騎の「悪」の定義のようです。
そのため、
偲央への復讐のため紀巴城内の全員の首を斬り落としたこと、
雷土への復讐のため捕虜十万人の首を斬り落としたこと、
これらは桓騎の「最大の悪の所業による報復」
であると見ることができます。
「殺す数」にこだわるがゆえ、実は、
死体を弄ぶ砂鬼一家をとことん利用しまくる残忍さや
人の心の弱いところを抉る卑劣さ、猟奇的な考え、
それらは「殺す効率」を上げるために活用した「方法」
だったのかもしれません。
なぜなら襲われた側からすれば、残忍な目に遭うくらいなら
「いっそのこと即死させてくれ」と言う心境になるはずだからです。
残虐・猟奇性が上がることにより、
そのような嗜好を持つ輩が勝手に桓騎に心酔するようにもなるので、
「殺戮の手」、すなわち末端の兵士の増員にも困らなかったでしょう。
最初こそ
でしたが、
の結果、そんな感じで「桓騎一家」が相乗的に膨れ上がり、
「悪の象徴」の野盗団となっていったのでしょう。
白老(蒙驁)に
と言われて即決出来たのは、国で公式に認められた軍という組織で
公明正大に「死人を量産できる」機会を与えられたことも
大きな要因だったはずです。
桓騎が「死人を量産する悪」に拘ったのはもちろん、先に掲げた
「偲央への復讐」のための「最大の悪としての報復」のためですが
そもそも偲央は桓騎にとって、「死」とは真逆の
「共に生きるもの」の象徴でした。
「共に生きる」ことを守る人生は、
桓騎にはもはや叶わない願いとなってしまい、
すなわち「生」への希望や執着を全て失ったことが、
桓騎がその対局の「死」に視線を向けたきっかけだったのでしょう。
「生」から目を逸らしたいがあまり、「死」へのこだわりが大きくなり、
それが「最大の悪」で復讐を達成する「目標」とすることで
当時の桓騎が自分の在り方を定めたのかもしれません。
元々桓騎は「世の中の構造を変えたい」と燻った感情を持っていたと
以前の記事で考察していました。
「目標」に向かっていく過程で、また「目標」を達成した後もなお、
自分の配下や自分に相対する敵として、
結局は「クソども」が永遠にとめどもなく湧き出てくるだけであることから
桓騎は以下の真理に辿り着いたのでしょう。
たどり着いた真実に、ずっと自分の中で燻っていた感情を抑えて
腹落ちさせる過程の中で、
クソどもを追いやってきた中で得た絆のある「仲間」と共に、
「クソども」とは違う死の「終着点」に向かうことへの望みが、
無意識にも桓騎の中に芽生えていったのかもしれません。
考察:桓騎の「武将」としての矜持
桓騎一家がその勢力を拡大できたのは、桓騎が
「戦が抜群に強え」(28巻100ページ)
からに他ならなかったからでしょう。
そして、蒙驁の下で武将として戦っていたものの、
もちろん国のため、仲間(味方の秦軍)のためと言う熱意も覚悟も
「あるわけねぇだろうがそんなもん」(28巻97ページ)
だった中、
合従軍戦・函谷関防衛の戦いで、死に際の老将・張唐は
と、桓騎が「復讐のため」一家を作ってから行っていた
「気に入らない奴らをぶっ倒す」ことに初めて意味を与えてくれました。
桓騎には暗闇を進む自らの道に、
綱を一本渡してくれたように思えたのかもしれません。
張唐は、秦のために全てを投げ出す覚悟があるかの桓騎の問いに
「愚問だ」(28巻101ページ)と言い切り、
そしてその矜持のまま、桓騎に促されるまま函谷関から降り、
韓の総大将・成恢を討ち取り、勝った武将として戦場で息絶えました。
実際の武将が目の前で見せたその「生き様」に対して
思ったこともあったのでしょう。
張唐の最期の言葉でもあったこの「寝言」を聞いた時が
桓騎が「武将」として生きる方向を変換するスイッチが入った
瞬間だったのかもしれません。
漠然と「共に死ぬ仲間」の位置付けだった「桓騎一家」。
それ自体が自分の「生き様」であるがゆえ、
自分はこれから「武将」として生きる、
武将として戦場で散っていく、
その時自分の軍・桓騎一家もそこで全滅する覚悟を持って戦っていく。
桓騎はそのようなことを
自分の「武将の矜持」としたのではないでしょうか。
この「桓騎が死んで桓騎軍も皆死ぬ」武将の矜持、
どこかで聞いたことがあるでしょう。
黒羊戦の桓騎本陣で信と羌瘣が起こした騒動で、
桓騎が羌瘣に対して言い放った
「桓騎を殺して"飛信隊"が桓騎軍によって皆殺しにされる」
覚悟を見せろとの言葉。(44巻145ページ)
これは桓騎自身の武将の矜持そのものだったと言うことです。
そして幹部に対しても、深層心理で「武将」として生きてもらいたいと
望むようになったのかもしれません。
那貴には心根に「武将への憧れ」があり、
それを桓騎は見抜いていたと上の記事で考察していました。
それは桓騎が「那貴に武将として生きてもらいたい」と
思っていたからこそ見抜けたとも思えます。
また、黒羊戦で雷土に
と揶揄していましたが、
それは皮肉ではなくむしろ「しめしめ」と言う心境だったかもしれません。
桓騎は以前、
蒙驁の崩御後、魏の汲城を攻め落とした後、
敵兵を全て人柱にして焼き討ちました。
桓騎はこれを蒙驁に対する「手向け」(34巻109ページ)と言ってました。
平陽戦、趙の捕虜十万人虐殺は偲央の紀巴城全員の首斬りと同じ、
雷土の「復讐」の意味は当然あるはずです。
でももしかすると、これは蒙驁の「人柱」と同じ意味であり、
虐殺は雷土を「武将」として見るが故の「手向け」であり、
大将(扈輒)の首を取られた後の軍隊(趙軍)、すなわち
己が皆殺しになる覚悟を持った連中にお前は殺された、
だからお前は武将として誇れる死に様だった、
と言うことを桓騎はもしかすると示したかったのかもしれません。
以前の記事で、
政からの詰問時、政から
と言われた時の目に「桓騎の本音」が見えたと考察していました。
具体的には、名台の武将と自分が比較されることで
桓騎になんらかの感情が沸いたのかもしれません。
それは「名が残る武将と並んだ」ことが嬉しい感情かもしれないですし、
「所詮二の舞だったか」と言う悔しい感情かもしれません。
この後「落ち込む」ことを考えると、後者寄りの可能性は高そうですが、
具体的な感情が何だったかは残念ながらもう知る由もないでしょう。
考察:オギコの伝言能力
肥下の戦いでは、桓騎が「奇襲が失敗の場合」を
想定した配置を当初からしており、「もし上手くいきそうになかった時」、
オギコに摩論・信へと、この順番で伝言を伝える役割を託しました。
これ、サラッと書きましたが、考えてみればすごい仕込みです。
まず、オギコがきちんと伝言を伝えられること、
そして伝える順番を守ること、
これを桓騎は完全に信頼していたと言うことです。
オギコはご存じのとおり、全く戦力ではなく、
マスコットと言うにもなんかちょっと違います(苦笑)。
書簡を持っての伝言係(41巻80ページ)が飛信隊との初絡みでしたが
(今考えるとこれは布石だったんですかね)
それ以外は「桓騎の肩揉み係」くらいしか思い浮かびません笑。
(41巻125ページ、43巻42ページ)
ただもしかするとこの「肩揉み」の中で
桓騎はオギコの「正確に耳コピーする能力」に気がついたのでしょう。
そしてむしろ「肩揉み」はフェイクであって
(そんなに頻繁に揉まなくてはいけないほど
桓騎の肩が凝っているとも思いたくない笑)、
桓騎が考えをまとめる中で自分の作戦を覚えさせて復唱させるなど、
オギコをボイスレコーダーのように扱っていたのかもしれません。
黒羊戦三日目、動かない桓騎に付き合ったオギコが
「疲れた・・・」と漏らしていました。(43巻43ページ)
これは桓騎からひたすらボイスレコーダー代わりに
復唱させられた証のように思えます。
間違ってもオギコが疲れるまで肩揉みしなくてはいけないほど
桓騎の肩が・・・以下略(苦笑)。
考察:桓騎軍におけるBプランの存在
オギコが「伝えた内容」自体が
きちんとした「脱出を想定した作戦」だったことも
何気にすごいと思いました。
摩論の言葉を借りた「事前に仕込んだ」(69巻44ページ)作戦とは、
すなわち完璧なBプランがあったと言うことです。
もしかすると桓騎は、この時に限らず、本来の作戦:Aプランのほか、
同時に逃げのBプランも一緒に日常的に作り上げており、
幹部への振り分け方や実施タイミングなど、
その時の状況で判断していたのではないでしょうか。
桓騎の「全部上手くいく」の言葉は、
Aプラン・Bプラン、両方あれば必ずどちらかは「上手くいく」
と言う確証があったから、と今となっては思えます。
肥下戦はAプラン失敗でBプランが発動しその存在が顕在化しましたが、
思えば以前にもその片鱗は見えていました。
それは平陽戦での扈輒討ち取りにおける「孫臏」戦法でした。
この作戦は、摩論と雷土だけに作戦が伝えられました。
ここで注目したのは、この二人が直接聞いた作戦内容の
具体的な言葉が原作で書かれなかったことです。
二人が聞いた具体的な言葉は、想像するほかありません。
摩論は桓騎に「ちょっと話がある」と肩を組まれ(63巻13ページ)、
ここで直接伝えられたのでしょう。
雷土にはオギコが敵を潜り抜け、伝えに行きました。
ここでオギコの伝言能力が初めて発揮されました。(15ページ〜)
結果、雷土は敵に捕えられ、
桓騎からの作戦を吐かなかったことにより殺されてしまいました。
作戦が見事成功し、
黒桜が作戦を教えられなかったことを摩論に愚痴った際、
「教えると敗戦の形がわざとらしくなるから」(89ページ)
と言っている点から
摩論は正確に「孫臏」戦法の作戦を聞いていたのでしょう。
なので
と言うのは、雷土が自分と同じことを聞いている前提である
摩論からすると当然でしょう。
ですが、本当に同じ内容を雷土は聞いていたのでしょうか。
オギコが雷土に伝えに来た際、
と言っています。
これ、よく考えると、
作戦の内容というよりは、雷土にあてた労いっぽくないですか?。
雷土も聞いた瞬間
「マジでお頭がそう言ったのか」(17ページ)と驚いており、
彼としても意外な内容だったはずです。
桓騎も、箱の中の雷土の死体に向かって
と語りかけてました。
きっと雷土に伝えられていた内容は、桓騎のこの時の「Bプラン」、
すなわち、上記の桓騎の言葉が全てだったのではないでしょうか。
雷土はオギコと別れた後、
「さすがお頭、そう来なくっちゃよ」(63巻19ページ)と感心しており、
一見「作戦」に感心したかのようにも見えます。
ただ、雷土は乱戦を解いた「後ろの森に退がる」指示(18ページ)を
「少し立て直す」ためと言っており、
「敗戦の形でひく」(=孫臏)とは違う目的で下がろうとしていました。
これは「適当に逃げる」作戦の中で
雷土なりにやることを考えようとした現れにも思えます。
そんな中、敵将の息子・曹還を味方が捕えたことを好機と捉え、
一発逆転を狙ってしまったのかもしれません。
「孫臏」を本気で遂行すべきなら、
そんな寄り道は絶対しないはずでしょう。
もしかすると雷土が拷問で、
仮に正直に桓騎から伝えられたことを吐いたとしても
桓騎としては何の問題なかったのかも・・・しれません。
むしろ吐いてくれていた方が「孫臏」戦法には好都合だったことでしょう。
・・・桓騎が雷土にどんなに直接
「大馬鹿野郎」(103ページ)と伝えたかったか、計り知れません。
考察:那貴が飛信隊から脱退した理由
以前の記事で、那貴は「武将」としての仕事が出来る場として
飛信隊を選び、桓騎軍からの移籍を決めたと考察していました。
那貴は飛信隊に入ってから、実に替えの効かない、
重要な役割を担ってくれていた認識です。
なので、肥下戦での離脱はまさに
「信じられない」「信じたくない」話でした(涙)。
那貴が「武将としての仕事」を存分に行っていたことはもちろん、
実際、楚水は那貴に対してメンタル面での
機微な気遣いを見せていた描写がありました。
(47巻15ページ列尾に向かう途中、
桓騎軍が戦いで留まるのを見て足を留める那貴に
「行くぞ」と声をかけたシーンなど)
那貴にとってみれば「生粋の武人」(42巻141ページの渕さんの言葉より)
である副長の楚水はまさに自分の「憧れる将の姿」であり、
彼らが自分らを気にかけてくれることは本当に嬉しかったのだと思います。
宜司平野での飛信隊・楽華軍との共闘の場では
那貴は陸仙の隊と組みました。
陸仙は楽華が300人隊だった頃から蒙恬の参謀として参画する武将であり、
彼から自己紹介を受けた際、那貴は
と受け返していました。
「陸仙隊ならば後ろを支える戦い方の方が有益である」(91ページ)ことを
事前に理解し、本来「すり抜け」(先導)が得意な那貴たちの戦いを
臨機応変に対応させることを可能とするほどに、
那貴は他軍の将やその隊の特性も勉強していたと言うことなんでしょう。
桓騎軍では絶対出来ないだろうこれらの経験を行うことが出来、
「本当に飛信隊が好きだった」のは紛れもない真実なのでしょう。
那貴は、飛信隊から抜ける理由として
と答えていました。
これに気がついたのは
「昨夜、砂鬼にお頭の怒りの根源の話を聞いてから」すなわち、
67巻205〜215ページあたりの話とのことでした。
上記リンク記事で、那貴が桓騎軍に在籍していたのは、
軍としての直接の戦力でない自分を幹部として置いてくれた
桓騎に恩と尊敬があったからと考察していました。
自分たち自身が「虐げられた」一家だったこと、
そしてもっと遡り、桓騎軍に加わった当初の
「痺れるくらい最高に格好いい」桓騎の姿を
思い出したのかもしれません。
ですがこれも上記リンク記事で、加入時において
飛信隊の魅力に絆されたのが那貴の「背中を押した」理由
だったのと同様でしょう。
何故なら那貴が桓騎軍から抜けた時も、
「桓騎は家族じゃない」「桓騎が格好良くなくなった」
のが理由ではなく、
「桓騎(お頭)が格好いい」ことは変わらぬ事実であって、
直接的な異動の「動機」とは思えません。
那貴が桓騎軍にいた時、
自分らの役割(入替要員、またはすり抜け部隊)が必要ではない時は
黒羊戦で厘玉が桓騎に付き従っていたように
桓騎の側で俯瞰して戦いを眺めていたのかもしれません。
那貴はみずから「元々『逃げ』と『隠れ』の専門家」(55巻77ページ)
と言っていました。
那貴は黒羊戦で信の慶舎との一騎討ちで、呂敏に「退路を作っておけ」
(44巻37ページ)と状況を見て判断した指示をしたり、
朱海平原の戦い14日目で信らが趙峩龍の徐兵団に包囲された時、
そこから「脱出」する手段として羌瘣を送り込んだり、
(55巻53ページ)
「逃げ」に関して現に状況判断に長けていた描写がなされていました。
桓騎が「Aプラン」と「Bプラン」を持つようになったのは
実は那貴の影響であり、もしかすると当初は正式に桓騎に対して
「Bプラン」の方法や発動時期のアドバイスをしていたのかもしれません。
一見「作戦の失敗による捨て身」に聞こえるオギコの伝言は
那貴が知りうる「逃げ」の成功の「Bプラン」であり、
この策に那貴は桓騎にシンパシーを感じたのかもしれません。
進軍時に落とした赤麗城での最初の晩(65巻250ページ〜)に交わした会話
もちろん今更桓騎は那貴が「裏切った」ことを
ねちこく責めていたわけではなかったでしょう(笑)。
これは桓騎が那貴を「野盗時代のすり抜け部隊」にする気は
二度とないと言う意味で、すなわち「お前は武将として生きろ」と
「武将の那貴」を認めている言葉に感じます。
なので那貴は、嬉しそうに微笑みながら、返事として
自分はもう「武将として生きる」ことを決めていると表明したのでしょう。
武将の自分を認めてくれたこの時、那貴は
桓騎に武将として恩をいつか返したいとも思ったのかもしれません。
今回の「Bプラン」の対極にある「Aプラン」は、
「無駄なことは好まない」(43巻49ページ)桓騎にとっては
「Bプランに必要なAプラン」であるはずで、すなわち
「『桓騎一家が戦いで全滅』する」こと自体が「成功」であることも
那貴は理解出来ていたのでしょう。
桓騎が、自分の得意分野の「逃げ」の策を、
桓騎自身の花道を飾る「軍略」として採用してくれた。
そして今回、自分が「武将」として恩を返す最後のチャンスでもある。
ならば「一家の武将」として「桓騎の最後のAプラン」の
成功に貢献しよう。
那貴がした覚悟はこのようなものだったのではないでしょうか。
那貴は離脱直前、信に伝えました。
ここの言葉が本当に号泣でした・・・。今も泣いてます😭。。。
那貴が信のことを名前で呼んだのは、おそらく最初で最後のはずです。
きっと、那貴「個人」としては、
ここで道半ばで飛信隊を離れるのは無念で仕方なかったはずだと
私は思っています。
は、↓の記事では
「河了貂の料理が那貴の舌に合っていた」象徴の表現として
扱ってましたが、もちろんその意味だけではなく、
黒羊戦の加入の理由として言った
「飛信隊で食べる飯がうまい」(45巻58ページ)の意味と同様、
「いい仕事をもっとして飛信隊に貢献したかった」
意味にも捉えられるでしょう。
この言葉を伝えて桓騎の元に走る那貴に
「那貴一家」は迷うことなく追従します。
那貴は自分についてくる自分の一家に即座に
「バカ、お前たちは信と行け(=自分についてくるな)」(56ページ)
と言いますが、
「那貴一家」を守りたいのはもちろんそうだと思いますが、
信の大将軍の道を自分の代わりに見届けて欲しいと
那貴が願っていた現れだったのかもしれません。
那貴が信に対して「(信が)自分をほれさせた男」と言いながら
一家のメンバーがついていく理由として
「那貴さんにほれているんで」(57ページ)と言うことに
「キモいな」と返す描写が何ともエモくて、
泣きつつもほくそ笑まずにはいられませんでした。
考察:桓騎が飛信隊に託したもの
桓騎は飛信隊に「砂鬼一家」「オギコ」「摩論たち」を託しました。
オギコと摩論は、桓騎の「武将の矜持」的には
「一家」から外れる人員でした。
オギコには矜持的な意思は期待できないですし、
摩論は例えば平陽戦で桓騎軍がこぞって皆敗走する中
「私も仲良しだけ連れて逃げよう」(63巻13ページ)と企んでたように、
「自分は生き残りたい」ことが顕著なキャラクターでした。
桓騎は肥下戦の直前に
と述べてますが、「生き残りたい」摩論が「一家」に入ったことで、
素のままでは「桓騎が死ぬ時、桓騎軍が全滅」する矜持を達成できない
ことを「失敗」と表現しているのだと思います。
今回桓騎は、摩論とオギコに「役割」を与えることで、
自分の「一家の在り方」への辻褄を合わせようとしたのでしょう。
そう、どちらかと言うと、オギコと摩論が「桓騎に託された」側で、
それは「砂鬼一家」らを逃すという役割を飛信隊に与える名目で
「飛信隊を逃す」役割だったのではないでしょうか。
上記の記事最後の考察で、桓騎がもし「生への未練」を残しているならば
それは「偲央」と「怒り続けていること」であると述べてました。
桓騎は自分の「生への未練」を残すことが、
「自分の矜持」と引き換えにした「Bプラン」だったのでは
ないでしょうか。
「偲央」に対する「生への未練」の象徴は、
間違いなく「砂鬼一家」でしょう。
「桓騎が怒り続けていた」こととは同じく上記の記事内で、
「世の中の構造を変えられない自分自身への怒り」であると述べました。
そして信や政は「世の中の構造を変えよう」と
実際に行動している者どもであり、
「自分の生き様」と相対するものとして
接触を避けたく思っていると考察しました。
それゆえに「自分が怒り続けているもの」への象徴を
「飛信隊」と定義したのでしょう。
確実に「中華統一」と言う「世の中の構造を変える」こと自体が
たとえ叶わない運命だったとしても、
自分の命が尽きた後の世でも絶えることない「怒り」を消滅させたくない、
と言う「生への未練」を残したかったのかもしれません。
摩論は政の桓騎への詰問で、結果的に政を納得させる説明ができました。
(64巻178ページ)
摩論ならばあの時と同じように、信に撤退を説得できる
と見込んだのでしょう。
おまけ考察:桓騎一家と桓騎
前項の考察の一方で桓騎は、摩論の表向きの使命を、
逃げが上手く生き残るだろう末端の桓騎一家の残りの取りまとめのため、
摩論も「生き残る」ことと位置付けています。
(69巻177ページ)
これは末端のものどもへの配慮と言うよりむしろ
私には摩論への配慮に感じられました。
桓騎の矜持はあくまで桓騎自身のものであり、自分と同様、
摩論には摩論の「生き様」(「生き延びたい」と思うこと)があり、
それを自分が侵害していい道理はないと理解している、
桓騎の男気を感じました。
摩論が敗走時に衣央に
と伝えられた時、豆鉄砲を喰らったような顔を彼は見せました。
摩論は「なんてことを、私はお頭を置き去りにして・・・」と悔いました。
ですがその前、摩論はオギコからの伝言を聞く直前、
自分たちが桓騎本隊から離された場所で配置されたところから
桓騎本隊が危ないことを察した時、
と、桓騎の命令に抗っても、
逃げるとは真逆の「助けに行く」行動を仕掛けていました。
・・・あの摩論からこの行動が見られるなんて。
正直、涙を誘われました。
桓騎には摩論の心境が読めていたのかもしれません。
桓騎にとっては衣央の言う通り、
摩論は生き様を尊重したいと願う「悪態をつける家族」だったはずです。
摩論は悔いることなく、自分が桓騎一家だったことに胸を張って
これから生きていって欲しいと願っています。
二つ前の考察で、那貴は桓騎の武将の矜持(Aプランの成功)を
理解していたとサラッと書きましたが
確証を持ったのは赤麗城での以下の会話でしょう。
一見、桓騎の強がりだったり、
自分の部下だった那貴に労わられることへの抵抗にも聞こえますが、
那貴の耳には、桓騎軍で桓騎の側にいた時の経験の積み重ねの中で
もやっと想像していた「俺はいつでも死の淵に立っているぜ」という
「桓騎の矜持」を具現化した言葉に聞こえたのかもしれません。
那貴が最後、桓騎の元に走っている時、
と反芻していました。
那貴が事前にもやっと「桓騎の矜持」を想像できていたので、
直接桓騎の口から聞きたかった、と言うのが
赤麗城で話をしに行った当初の動機だったのでしょう。
もちろん、直接忌憚なく桓騎に話して欲しかったのは
もっともであるはずです。
ただ結果的に聞きそびれた形となってしまったことを
ここで後悔しているわけではなく、
それ以上に、それを聞くことがその時必然とは思わなくなったくらい
桓騎から話してくれた「武将として認める」言葉が
嬉しかったと言うことあり、それだから尚、
最後まで「武将として駆けつける」覚悟をなんとしても達成することの
決心を固めていたのかもしれません。
桓騎が取り囲まれた外側で趙軍が「敵襲」と報告した時、
桓騎は見るまでもなく、那貴が来たとの一家の疑心暗鬼な報告に
「多分な、いや間違いねぇ」(69巻101ページ)と答えました。
桓騎は「Bプラン」の伝言を「武将の那貴」が聞けば、
今の自分が「Aプラン」の中にあると間違いなく理解できる
確証があったのでしょう。
桓騎にとっては唯一、お互いを武将として認識できた家族が
那貴なのであったと、私は思っています。
そして「一家全員」が揃ったから桓騎は
「李牧を先にぶっ倒して、俺たちが勝つぞ」(102ページ)
の言葉を発し、最後の気合いを入れたのでしょう。
桓騎から離れた場所で槍に穿たれたはずだった那貴(111ページ)は、
最後は李牧の足元までをも迫り、
誰よりも桓騎の近くで絶命していました。(130ページ)
もしかすると那貴は一家で唯一、桓騎の絶命を見届けたのかもしれません。
桓騎一家の「武将」として、死に水を取る意味で。
桓騎と「話をしたかった」家族と言えば、
先に果てた雷土もまたそうでした。
拷問にあっても桓騎の作戦を頑なに白状しなかった雷土は
ついに自身の回想の最中、
と狂気じみたことを口にします。
雷土自身もすぐ
「(ん、何言ってんだ俺・・・)」
と思っており、この描写は正常な人間の認識が行えていない、
すなわち雷土がすでに今際の際に立っていることの現れなのでしょう。
最後、桓騎に対しての思いの丈をぶちまける中
「あいつ(桓騎)は今もまだ渇き続けていて」と口にした途端、
突如雷土は言葉を止め
と何かに気がつきました。
死ぬことは怖くない、今までやってきたこと・見てきたことの方が
もっと酷かったことは、先に彼が言っている(137ページ)通り、
雷土の頭に元からあったのは確かでしょう。
それが本当に「怖くない」と、今際の際の雷土は今まさに腹落ちしており、
それは今の雷土と同じ場所(死の淵)に「渇いていない桓騎」が
立っているように感じたからなのではないでしょうか。
雷土的には、いや実際も今際の際に桓騎が今立っているわけはなく、
「いや、違うかな」とすぐに思い直しつつも、
と悔いるその言葉は、
桓騎にとって自分たちは「共に死ぬ仲間」なんだろう?、と、
雷土が直接聞きたかった現れだったのかもしれません。
話は肥下戦クライマックスの場面に移ります。
投降を促されつつも「そんなダセェことするわけねぇだろ」(69巻70ページ)と一笑する桓騎につづき、厘玉が「雷土があの世で見てます」と、
「一家」が「桓騎の生き様の終着点」まで一緒に向かう筋道が出来て以降、
桓騎は「ちょっとだけ先に行ってろ、黒桜」(104ページ)と、
黒桜を見送り、
あと一歩のところで厘玉が果て「一人にしてすまねぇ、お頭」と悔いるのを
「気にすんな」と見送り(122ページ)、
偲央のもとに「家族全員」が集ったことを確認して(124ページ)、
桓騎も息絶えました。
黒羊で桓騎が羌瘣に言った
「桓騎を殺して"飛信隊"が桓騎軍によって皆殺しにされる」覚悟は、
桓騎としての武将としてすべきだった覚悟(44巻145ページ)でした。
桓騎はその言葉の通り、
「李牧を殺して”桓騎一家”が趙軍によって皆殺しにされる」
覚悟を全うして、この世を去りました。
李牧を実際に倒せなかったことは無念であったとは思います。
でも「戦国を生きた武将」として「家族」と共に、
自分の道を悔いなく歩み切ったと思っていたと思いたいです。
最後に
今回の考察の始まりは、この記事でも繰り返し書いている
黒羊戦で桓騎が羌瘣に言った、
「桓騎を殺して"飛信隊"が桓騎軍によって皆殺しにされる」覚悟
についての話を、上の記事で深堀したことでした。
この時に桓騎の実際の死に様が
「おお、言ったことを全うしとるやん!」と気がつき、
その行間を埋める形で、結果的に3つの記事を並行して書き進めました。
実は、全体的にももっとすんごく深く掘っていたんですけど、
長くなるだけでしたし、かえってややこしくなりそうだし、
原作の実際の記載に結び付けられない内容について全てカットしました。
なので長いにも関わらず、
自分としては少し消化不良だったりします(苦笑)。
ただ、最後のおまけ考察(摩論・那貴・雷土のくだり)は
長くなるよな、とか、なくても成立するなと思ったものの、
桓騎の家族や死を語るにあたり、
個人的に絶対省略したくなかったので載せました。
それにしても。
当初、原作を読んでいて、
絶対に自分は桓騎のことを理解できないと考えてました。
だから3つの記事を辻褄が合うように考察でき、
私なりに桓騎について腹落ちできたのは本当に感無量です。
なのでこれでよしとします。
もちろんこれが全てであると言い切るつもりは全くないです。
むしろもっと桓騎はミステリアスであって欲しいと願ってます(笑)。
こんな自分勝手な長文考察にお付き合いくださって、
本当にありがとうございました。