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自分ノート(その5)

「私はキリストである」などと言うと、どこかの教祖のようですが、これは実は正しいことです。もっと正確に言うと、「誰の私もそれが私である限りキリスト」なのです。何故なら、かつてキリストが私であったことによって、私がキリストになったからです。つまり、イエスがキリストになる前の私はキリストではありませんでした。したがって、律法が必要でした。「汝殺すなかれ!」です。動物たちは今でもキリストではありません。芋を洗って食べる猿がいますが、最初に若い猿がやっているのを見て、他の猿も始めたそうです。どんなことでも、最初は誰かがやって見せる必要があるわけです。私たちの「本当の」私に気づかない人は、未だに芋を洗わずに食べています。エゴイズムとはそういうものです。誰もが自分の真の私に気づけば、刑法は必要なくなるでしょう。

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