うつくしいこと -芸術単元のふりかえり-
はじめに
さぁ、今回は芸術単元のふりかえりです!
アート好きの私としては、「待ってました!」と言いたくなった講義。
普段、アートに触れて感じていたこと・考えていたことを言語化してもらっていくようで、おもしろかったです。
と、同時に「あ、これは私だけが思っていたわけじゃないんだなぁ。すでに色んな人が考えてて言語化してるんだ」と驚きもありました。
そんな時間となった講義ですが、なんだか言語化するのがもったいない気もしてしまう…
しっくりくる表現を見つけられない。そんな中で、言葉を当てはめて、「その言葉」になっていくのがこわい。
とは言え、考え続けるを前提に、言葉にしてみよう笑
美学的な考え方に触れて
人間が尊敬し愛すると考えられている「真・善・美」の中の美。
わたしの理解では…
美しいこととは何であるのか、それはなぜ美しいのか。
その価値について考えること。
美しいということは、単純に綺麗・清潔というわけではないと思っている。
泥臭いくらいの一生懸命さを、うつくしいと思うことだってあるから。
個人的には、何かを目の当たりにして「ああ、いいなぁ」と思うこと
心の底から湧き上がる『愉しさ』みたいなものを言うんじゃないかなぁと思っていて
だから、『おもしろい』という表現は近い気がしている。
何かしらの調和や秩序性、こうあるべき姿のようなものを感じ取っているのかもしれない。
事実と感性
事実と感性をごちゃ混ぜにしてしまっている、というような話があって
とても印象に残っている。
それはそうなんだよなぁと思わなくもなかったから。
美術品を扱った番組で、贋作だと知った瞬間に「感動を返せ!」ってなる人たちを見て
でも、その感動も嘘ではないじゃないかなぁと思うことがあった。
うーん、でも贋作に騙されるときって、その作品を本当の意味で見てない時が多いような気がしてるから、なんとも言えないなぁ。
頭で見ているというか、教養で見ているというか…
目で見てないんじゃないかなぁって。
誰がつくったから、とか
有名だから、人気だから、とか
コレとアレがいい作品の条件だ、とか
たぶん、そもそもフラットに作品を見てなかったりする。
頭で作品を見て、何かしらの「事実」に感動してる。
その感動は、そもそも違う感動だから
この話には当てはまんないのかなぁ。
たとえ贋作でも、心を動かすエネルギーのあるすごい作品はあって
「こりゃ、騙されるわ」みたいな。
それに感動したのは、感動した!でいい気がする。
その作品に触れて、「ああ、いいなぁ」と
まさに、その瞬間、湧き上がる感情は嘘じゃないんじゃないかなぁ。
ごまかしようがないし。
ただし…
またまた「けれども」の話になってしまうけど
その作品の背景を知った上で好きだと思うのも、また嘘じゃないよね。
初見の作品に、この人の絵「ピンとこない」とか言っちゃたりする。
何も知らないで。
そんなんだけど
美術史の流れとかを追っていくうちに、その作品の背景を知ることになって、「うわ、おもしろい」とか「いいなぁ」とか思うようになる。
(知識が本質を見えなくすることもあれば、偏見をなくすこともあるよね)
何も知らないで、好き・嫌いと言っちゃうのは
その作品(作者)に対する偏見であり、自分自身に対する偏見だ。
その偏見を取っ払うからこそ、ちゃんと見られる。
いいなぁって思うこともある。
「これを好きだと思える自分もいるのだ」と気づくことができる。
そんな瞬間にたいしても
わたしは、うつくしいなぁと思う。
ディスコミュニケーション
ディスコミュニケーション
この言葉を知った時は、「この感覚に名前があるのかぁ!」と興奮した。
アート作品を見て、別に人々の癒しのためにつくられたものじゃなくても
「勝手に救われる」自分がいたり…
自然はただそこにあるだけで
わたしにうつくしいと思わせようとしてるわけじゃない。
だけど、わたしは「うつくしいなぁ」と思う。
そういうのを『ディスコミュニケーション』と言うらしい。
色々な解釈の余地がある作品の方が面白かったりするのは
『ディスコミュニケーションの余地がある』からなんだ。
わたしは、アートには、その場で偶然の要素も含めて創造されるという側面があると思っている。
以前、人形劇「3匹の子ブタ」見に行ったとき、
その時その時で、子どもたちが子ブタを応援するか・オオカミを応援するか違うということを教えてもらった。
絵や彫刻もそうだと思う。
完成されたものではあるけど、展示空間や鑑賞する人が何を思うか
そこまでがアートだ。
自分のために、自分がつくりたくて作ったものであっても
見たり聞いたりできて、公開されたものなら(≒作品なら)
否応なく、アートは他者に開かれる。
おわりに、アレゴリーについて
アレゴリーはアレゴリーになったらアレゴリーじゃない。
わかるなぁ。
マイノリティにさえなっていないもの。
他の誰かも同じように思っているはず!
この段階。
アレゴリーがアレゴリーになった瞬間
それは、0➡1のクリエイティブと呼ぶのではないだろうか。
ほんとうは、ゼロ(無)じゃない。
ただマジョリティの世界に発見された。
マジョリティの世界に見せることができた人がいた。
そういうことなんじゃないかなぁ。
マイノリティにすらなれていないもの、それを発見し、みんなに伝えられるかな。
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