瓜田「さみしさは強烈に機能する」における「非合理」について


友人の楽しい作品に茶々を入れていくのは、無粋なことであることはわかっているものの、とても楽しくもあるので、許してほしい。誰かの書き物に触発されて、だらだらと想念を垂れ流すのは、すごく楽しいことである。私のこの「小言」を許容してくれる友人であると思っているので、のびのびと書いてみよう。


まず、

僕たちの非合理のすべては、元を辿ればさみしさにあるのだと思っていたからだ。

瓜田「さみしさは強烈に機能する」

というところで、私はつまずいた。というのも、「僕たちのあらゆる非合理の源流には、『さみしさ』があるんだ」というのは、多分に「合理的」な説明だなと思ったからである。非合理とは、合理的な説明を許さないから非合理であるので、「さみしさ」を説明項として非合理について語ることは、実は非合理ではない何者かについて語ることである。では、瓜田は何についてここで語っているのか。

でも、理性を司る僕たちでさえ、ときどきそういう非合理を選択してしまうことがある。そして僕は、そこにこそ僕たちが僕たちである所以があるのだと思わずにはいられない。

「正解」が常に選べたなら、僕たちは僕たちでなくなってしまう。正しさにちょっかいをかけてくるのは、いつだってさみしさだった。理性の暴走を止めるために与えられたものとしての、さみしさ。

瓜田「同前」

はじめの文の「そういう非合理」とは、夜中に誰かに電話をかけること、悪天候なので学校を休むこと、深夜5時まで起きることである。こういったことをしでかすことが、私たちが私たちであることにおいて重要であると言われている。理性の暴走、つまり「正しさ」に抗うものが、さみしさである。ここで、「合理的」といわれる選択の例は、「迷惑だから夜中に電話をかけるのをやめた」、「単位のために天気が悪いなか学校に行った」、「健康に悪いので、早寝をした」である。

しかし、これらは「合理的」という言葉で表現すべき事態ではないように思われる。というのも、これらの選択は「合理的」ではなく「社会的」であるからだ。夜の電話は社会的にはまずいし、頑張って学校に行くのは社会的に良いことだし、早寝早起きは社会的に良いことである。そもそも、瓜田が「非合理」としているものごとに、合理性を見出すことはいくらでもできる。例えば、「深夜5時まで起きること」は、「楽しいことをやめられなかった」ことを原因として起きると考えられる。
「社会的」の反対は、「非社会的」な事態である。先に示した引用の「そういう非合理を選択してしまうことがある」とは、実は「そういう非社会的なものを選択してしまうことがある」と読まねばならない。

瓜田は、非合理なものごとではなく、非社会的なものごとについて語っている。

非社会的なものごとを誘発するものとして、「さみしさ」というものが考えられている。このように読み替えた瓜田の主張に、しかし私は無理なく納得できるのである。

私のこの読みに対する応答を、是非とも聞きたいところだ。

いいなと思ったら応援しよう!