友人の楽しい作品に茶々を入れていくのは、無粋なことであることはわかっているものの、とても楽しくもあるので、許してほしい。誰かの書き物に触発されて、だらだらと想念を垂れ流すのは、すごく楽しいことである。私のこの「小言」を許容してくれる友人であると思っているので、のびのびと書いてみよう。 まず、 というところで、私はつまずいた。というのも、「僕たちのあらゆる非合理の源流には、『さみしさ』があるんだ」というのは、多分に「合理的」な説明だなと思ったからである。非合理とは、合理的な
先日はひどい雨であった。友人たちと飲む約束をした私は、家から駅まで30分ほどかけて歩く。「運動不足だからって、わざわざ歩いて行くことなかったな」「本読みながら、バスで駅まで行けばよかった」などと思いながら、まだら模様に見紛うほどの水溜まりたちを躱わしてゆく。雨水が靴に侵入する。後悔が加速する。私の靴下を犯す不快さ。私の体に土足で入るな。私の体に... 不快の理由は、私の所有する身体、私が「征服」している身体に土足で入り込むからだ。当然だ。私の所有物に無許可で触れていいわけが
コロナの後遺症のせいで、今私は味覚、嗅覚がない(厳密に言えば、味の濃いものはある程度味がするが、嗅覚においてはあらゆるものから同じ匂いがする)。美味しいものを食べることは私の日々の楽しみであったので大変つまらない毎日ではあるが、五感のうち二つも機能不全になるなんて、なにか哲学の思考実験じみていて面白くもある。このことについて、特に味覚について話をしてみたい。 今日でこの障害を発症して4日目になるのだが、味覚に関してなかなか面白い体験がいろいろできた。まず第一に、「口の中に味
「お前は非科学的だ」と言われたらそれは、「お前はバカだ」と言われたのと同じである。科学的なことは良いことである。「科学的根拠に基づく」って書いてあったら買いたくなっちゃう人種もいる。科学界の王様である物理学を大学で専攻しようものなら、「なんだか頭良さそう」って思われちゃう。 私は科学をバカにしているわけではない。私も現在大学で「人文科学」をやってます。私は「科学ってすげえ」という感覚を強烈に感じている人間である。だって、はたからみれば、あんなに難解なジャーゴンを使って荘厳な
歴史学科で過去の出来事を丹念に学んでいるとき、ある種の不安が払拭できないまま私の隣にいる。今日のこの記事は過去に関する不安の解明を目的とするものだ。 まず、過去一般の最大の特徴は、「その過去は今、ここには存在しない」ということだ。幼稚園生の頃の私は、当時の友人に「先生に一度も叱られたことがない」と自慢していたらしいが、当然それは「今、ここ」のことではあり得ない。絶対に知覚できない、どんなに強く願ってももう二度と体験できないという圧倒的な断絶が、過去を過去たらしめるものである