自己紹介その2

前回は最古の記憶について語った。

今日はその少し後について話したいと思う。

と言うのも。

久しぶりにnoteを更新しようと思い立った時、幼少期から覚えている事柄について書こうと思ったのだ。

どうしてそう思ったのかという理由は、新卒での就職活動を行なっていた時まで遡ることになる。

就職活動を行なっていた時に、幼少期から印象に残っていることを書き連ねることで、自己分析を行うという手法について学んだ。

おそらく何かの書籍だったと思う。その本曰く、小中高大で覚えてる記憶が今の自己の形成に大きな役割を担っている、それゆえその記憶について掘り下げていけば、自ずと自分について分かっていく...そんなことが書かれていたように思う。

当時の私としては、面白い意見だな、と思った。例えば親友と呼べる人物が居たとして、ほとんど同じ学生時代を過ごしたとて、全く同じ記憶を持っているのと言われればそんなことはないだろう。

おそらく、持って生まれた感性や自分と共有できない家庭や習い事等の経験によって、印象に残る出来事は変わるはずだ。

運動が好きなら運動会の印象は強くなると思う。

勉強が好きならテストの結果とかかな?

ともかく。

今でも覚えてることはその人によって重要なインシデントなんだろう。


と、いうことまで当時の私は考えたが。

では、就職活動の時、私は過去の記憶と向き合ったか。

結論からいうとNOである。

私は就職活動が苦手だった。

本当に苦痛だった。

後述することになると思うが、結局私は就職活動に失敗した。

就職活動に伴うあらゆる行動が苦だったからだ。

自己分析、業界分析、インターンシップ、企業説明会、面接対策、試験対策、etc…。

ありとあらゆる行動が、とんでもないストレス被る作業だった。

私は常人の10分の1か、それぐらいのスピードでしか就職活動の準備が行えなかった。

自己分析も、手法について色々調べたが、結果としてありがちな何かのサイトの質問に答えて、表示された適正職業について、さほど調べもせずに面接等に挑んでいたと思う。

二の足を踏みまくった結果、満足に自己分析を行う時間もなくなってしまった。

それぐらい、私は就職活動が下手くそだった。

まあ、その時のことは後々。

私の自己紹介の最後の方で伝えれるはずだ。

今はこのくらいにしておこう。


とにかく、私はnoteに自分の紹介を載せようと思った時。

辛かった就職活動のなかで唯一と言っても過言ではない、手に入れた知識である自己分析のことを思い出した。

そして、幼少期から今までの、印象に残った出来事を綴ることで、自分の紹介を行おうと思った。

自己の分析ができるぐらいの情報だ。きっと皆さんにも私という人間について、多くのことが伝わるだろう。

できれば、最古の記憶から今までの記憶について、思い出した出来事は全部書きたい。

だが、継続力に難がある私がどこまでそれを続けれるのかは甚だ疑問だ。

それに、何かを成し遂げた人間ならまだしも。

どこにでもいる一般人Aの記憶について、noteに放流することにどれほどの意味があるのだろうか。

正直に言って、私だったら読まないだろう。

しかし。

これも後述する予定だが、私には夢がある。

そのことについて、日々ガムシャラに進んでいる。

何が正解で、何が不正解なのか。

誰にも分からない。

それなら、少しでも理になると思ったことは飛び込んでみるべきだろう。

数年の前の私は、ガムシャラな努力に否定派だった。

何か目指したいものがあるなら、先人の知恵や体験談を拝借し、自分にとって利となるものについて考え、キチンと目的地に向かうことを考えてから、努力することが重要だと思っていた。

考えない努力とは自己満足である。

人生は有限だから、叶えられる夢、目標を立て、それに向かって意味のある努力をするべきだと考えていた。

だが、いささか私は理想を追いすぎたようだ。

叶えるのが難しいことが夢だ。

荒唐無稽であるものが夢だ。

先人の地図などどこまで当てになるか分からない。

最短距離で進みたい気持ちは確かだ。

だが、何が最短なのかは走ってみないと分からないだろう。

それに。

いつまでも、効率的な練習に拘って量を疎かにするのはたくさんだ。

質とは、量のその先に存在している。

ガムシャラでは辿り着けなくても、ガムシャラになれる体力は必須だ。

と、まあ。

脱線をしすぎたようだが。

ともかく、論理的な考えもなく、自分にとってどれほどの価値があるかも分からないが、ほとんど気まぐれで。

私は私のことを書いていく。

全部でどれくらいになるのか、見当もつかない。

案外、来週にでも完結するかもしれない。

あるいは、1年後もまだ、自己紹介をしているかもしれない。

だが、まあ。

どのような結末でも、誰にも迷惑はかからないはずだ。

いささか無責任かもしれないが。

私は私のために、私の自己紹介を続けていく。



前置きが長くなりすぎたので、今回はここまでで終わろうかと思ったけど、続きを書きたいから書いていく。

これもきまぐれだ。



ここからが、自己紹介、その2だ。
私は物心がつくのがとても遅かった。

多分、小学生の低学年、あるいは中学年まで、私は物心がついていなかった。

それまでの私は、毎日、よく分からない日々を、よく分からないまま生きていた。

幼稚園に行く日と行かない日があるのは、パターンとして認識していたが、どの日がそれにあたるか分かってなかった。

というか、そもそも。

幼稚園に行く意味もあまり分かっていなかった。

そんな時の記憶をいくつか辿っていきたい。

幼稚園編だ。

前述した通り、物心がつく前の話しだ。

記憶は混在し、曖昧で、自信がない。

刹那的に生きていたのだ。

とはいえ。

物心がついていないとはいえ、人間なので、多少の記憶はある。

覚えているのは…。

兄のことだ。

私は年子の兄がいる。

出来の悪い私とは違い、聡明で努力家、しっかりものの兄だ。


兄には幾度となくお世話になってきた。

私は甘えん坊で、一人では何もできなかった。

そういう時は決まって兄に助けられてきた。

そんな、兄に対する。

最古の記憶が。

幼稚園での出来事だ。


初めての幼稚園。

引っ込み思案で、人見知りで、友達もいない空間に20人だか30人だかと一緒になる。


できるわけがなかった。

私はいつも泣いていた。

確か、年少の時は担任の先生が二人いたと思うが、そのうちの一人は基本的に泣いている私を抱いていたんじゃないだろうか。

それぐらい、私は手のかかる園児だった。

そして、私自身がそう望んだのか、それとも困った担任の先生の案なのか。

私は一つ上の年中の兄のクラスによく預けられた。


恐らく兄には兄のコミュニティが、小さいながらもあったのだと思う。

そんなところに、私がくっついていったのだ。

とても嫌だったはずだ。

だが、兄は嫌な顔ひとつせずに、私の子守りをしていた。

私とたったの一学年違いの兄だが、私にとっては兄は両親となんら変わりない保護者の一人だった。

もちろん幾分自分に近い存在だとは思っていたと思うが、それほど私は兄に対して信頼心があった。

それに、兄もやはり、同じ年齢の子供に比べてはるかにしっかりしていた…と後年、両親が言っていた。

ともかく。

私は最初のうちは、自分のクラスではなく、兄のクラスにいた。

そして、クラスに慣れてからも、嫌なことがあるたびに、兄のクラスに逃げていった。


給食で苦手ものが出たら兄のクラスに行った。

先生に怒られたから、泣きながら兄の元に行った。

友達と喧嘩したから、兄の元に行った。


という記憶がたくさんある。

だが、実際に私がどれくらいの頻度で兄を頼っていたのかは実は不明だ。

というのも、私の記憶では年少の間は自分のクラスより兄のクラスにいた方が長いくらいだったのだが…。

いつだったか、兄に聞いたことがあるのだが、兄は全く覚えていなかったのだ。

自分のクラスにお前が来た記憶はない、と言われた。

ならば全部が何かの勘違いかというと、そんなことはない。

というのも、日々のクラスではないが、兄の世話になったことを、兄はちゃんと覚えていた。

兄が覚えていたのは、幼稚園のイベントで、遠足のバスに乗る時に、クラスごとのバスにも関わらず、私がついてきたという記憶のみだった。

兄は、仲の良い女の子と隣同士で座る約束をしていたらしいが、私がそこに割り込んだらしい。そして、バスが嫌だからずっと泣いていたと。

流石の兄もその時は私を疎ましく思ったらしい。

だが、結局兄は、私を見捨てずに、最後まで遠足を一緒に回った…らしい。

私は私で、遠足の記憶など全くない。

だが、いまだに乗り物酔いが激しい私のことだから、バスでずっと泣いていたのは解像度が高い気がする。

どっちにしろ、その経験は私にとって不必要な記憶だったのだろう。

私にとっては遠足よりも、日々の記憶の方が鮮明だ。兄にとっては、遠足という特別な日の方が大切だったのだろう。

とにかく。

私は兄にべったりだった。

恐らく、兄がいなかったら年少は過ごせなかっただろう。

いまだに不甲斐なく、ことあるごとに助けられている兄だが、その始まりは、幼稚園のクラスからだった。

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