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何度もひざを打つ!『だからあれほど言ったのに』
ひとこと書評
いまの政治はいいシステムではない。そのことを国民は知っているし、あきらめていると内田氏は言う。そして、諦念が広がると、どうやって正すかではなく、「この不出来なシステムをどう利用するか」をまず考える人たちが出てくる。彼らはシステムをhack(活用)する。もう一つは、だめだこりゃとこの国を見限り、海外へ脱出する人たち。run(逃げ出す)である。内田氏は、私たちはhuck or runの二者択一を迫られており、無いのは「システムの内側に踏みとどまって、システムをよりよきものに補正する」という選択肢だけだと言う。
これを読み、企業も同じだと思った。この会社はダメだと思ったとき、3つの選択肢がある。染まるか、逃げ出すか、変えるか、である。私は変えられる者になりたい。しかしそれとてどれだけ大変なのか。いっぱいいっぱいである。だが、この本を読めば、「会社のことだけでわたしは手一杯」などと言わず、この国のことを、特に子どもたちと地方のことを、考え、踏みとどまって内側から変える大人にならなければと思わされる。
語り口は軽妙で、いつもの内田節だ。膝を打ち、叱られ、ハッとさせられ、背筋が伸びて本を棚に戻す。ああ、これだから内田樹はやめられない。今日も、来年も、10年後も、内田樹を読んで少し違う自分になる。この幸せが続きますように。
以下、自分のための乱文読書メモ
第1章 令和時代の不自由な現実
・ビル・ゲイツがこれまでに買い占めた農地は香港と同面積とか。農業が資本主義の土俵になるのは危ない。食文化の基本は飢餓の回避。だから人類は主食をずらしてきた。主食が同じなら欲望が同一物に集中する。ずらすことが人類としてのリスクヘッジなのだ。しかし資本主義は同一物に集中させることで利益を上げやすくする。食文化は、「経済」でなく「安全保障」で考えなければならないというわけだ。なるほど!(p.32)
・(学校教育や日本社会について)不思議な話ではあるが、「統御し、管理しようとする欲望」は全く逆の結果を生み出してしまった。それは「創造」と「管理」ということが原理的には相容れないものだから。「創造」がどういうものであるかを知っている人は(中略)少ない。日本社会では管理したがる人の前にキャリアパスが開かれている。創造に熱中している人は出世には対して興味がないので、創造的な人が政策決定に関与する回路はほぼ存在しない。だから、資源配分の決定を「管理が好きな人たち=創造とは何かを知らない人たち」が下す限り、その集団が創造的なものになるチャンスはまずない。自分の出世しか興味がない会社員が組織マネジメントを委ねられると、組織はどんどん息苦しく、みすぼらしいものになる。(p.36-37)➡あちこちで起きていることとその構造を、これほどわかりやすく説明してくれた話は初めてだ。メンバーの力を組み合わせて生まれる「創造」に誰より夢中になっている幸せな私は、興味がないと言わず「管理」を手に入れ、世の中に「よきもの」を創り出せるマネジメントになることが使命だよ、などと自分に渇を入れてみる。
・創造というのは、「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスである。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるが、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことだ。完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」時の実感である。(p.42)
・「だいたいの当たりをつけてから、そこに向かう」プロセスのことを「ストカスティック(stochastic)な」プロセスと呼ぶ。創造というのは「外からはまるでいきあたりばったりのように見えたが、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセス。これはまったく「管理」になじまない。
・気息奄々(きそくえんえん)という日本語を知った(p.50)
・貧乏と貧乏くさいは異なる。貧乏くさくない社会とは。他人の富裕を羨まない、弱者を見捨てない、私財を退蔵せず分かち合う。(p.59)
第2章 人口減少国家の近未来
・人口減に対して採り得るシナリオは原理的には二つしかない。資源の「都市集中」か「地方分散」。日本人は過去において地方分散の成功体験は持っているが、都市集中についてはそもそも経験がない。イギリスの政治思想家エドマンド・バークが言うように「うまくゆく保証のない新しいシステムを導入・構築する」ことには警戒し、実際に日本の人口が5000万人でかつ安定的に統治されていた明治40年代の地方分散シナリオを参照してはどうか。明治維新まで日本列島の人口は約3000万人、それが276の藩に分かれていた。明治維新後、藩は解体され府県制に移行したが、明治政府は東京への資源集中と同時に資源の地方分散にも力を注いだ。各帝大に見る「教育資源」の分散、通信・上下水道・電力をはじめとする社会的インフラ、等。だが、なぜか選択すべきは「資源の都市への集中」ということが政官財においては既定方針。しかも、国民の同意を得る手間を省いて、黙って実施している。地方を見捨てることは既定方針だが、それを公言しない。国民的な議論は行われず、国民的な合意形成も目指されていない。➡なんともヤバい国になった
・「21世紀の囲い込み」をめざす、現代の資本主義
実は、「人口減には都市集中で対処する」というのは何らかの政治的立場からの要請ではなく、資本主義からの要請。資本主義は如何なる場合でも経済成長を志向する。地球が劣化しようと人類が棲息できなくなろうと、経済成長を志向する。ただのシステムであって、生物ではないから。カール・マルクスは『資本論』で資本主義が起動したのは「囲い込み」からだと仮説を立てた。19世紀英国で、農地を牧羊地に転換し、自営農たちを土地から引きはがして都市に追いやり、労働力意外に売るものを持たない無産者に転落させたプロセスのこと。人為的に「人口過密地」と「人口過疎地」を創り出した。過疎化した土地には生産性の高い事業を展開し、土地を失った人々は都市に集め、求職者が多い状態=劣悪な雇用条件でも労働する環境を創り出した。この二極化が資本主義にとって最高の環境。以後、資本主義はこの成功体験を忘れたことがない。(p.82)➡脱する日を決める
第4章 他者の思想から考える「自由さ」と「不自由さ」
・人間は他人から熱烈に愛されていても、それに気づかないということはある。しかし、他人から深い敬意を抱かれていて、それに気づかないということはまずない。敬意にはどんな感情表現よりも強い伝達力があるからだ。敬意は、愛情よりもたぶん憎悪よりも、羨望や嫉妬よりも、はっきりと相手に伝わる。論語の「鬼神を敬してこれを遠ざく」も、コミュニケーション不能な相手であるはずの鬼神でも経緯には反応することを教えてくれている。(p.144)
第5章 「この世ならざるもの」の存在を知る
・母語である日本語には、日本語の淵源がある。江藤淳が「沈黙の言語」と呼ぶもの。自分の中にこの沈黙の言語=膨大なアーカイブを持っていないと、語ることはできても、創造ができない。
・野生の自然と文明社会との境界線。人間とは違う世界のものとの境界線だけが人間に恵みをもたらす。野生そのものも、文明そのものも、恵みをもたらさない。原生林の中では生きていけないし、コンクリートの都会の中では食べる者は作れない。川があっても汚れていては水さえ飲めない。食べられる農産物も、飲める水も、それを生み出すのは野生と文明のフロントラインだからである。だから、その境界線は誰かが守らなければ案らない。「センチネル(sentinel)」とは歩哨、番人のことだが、超越的なもの、野生のもの、異界のものとの境界線を守るもの。そいう人が一定数いなければこの世界はもたないという直感に導かれて、そういう集落にいてくれる人がいる。
(p.199)
・現世の価値観が通じないものに対しては敬意を表する。己の理解も共感も絶したものに対してはとりあえず適切な距離をとるということ。この作法を身につけることが、武道を学ぶことの勘どころ。(p.201)➡己の理解を超えたものを見下げたり攻撃することの愚かさ、危うさを思う。
第6章 「書物」という自由な世界と「知性」について
・社会的に偉くなると叱ってもらえなくなる。旦那芸は叱ってもらえるための教育的な仕掛けだったのではないか。
・知的であるとは、「慎ましさ」。➡同意。すべてのものは次へと渡す義務があることを知るインテリジェンス。との石田氏の名言に通ずる。内田氏は主に、無限の知に対する礼儀正しさ、自分がいかに物を知らないかという有限性の覚知について言っている。
・三国志の「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」の故事、「士三日会わざれば、刮目して相待すべし」は、学ぶ人は三日会わないと別人になっているので刮目して相まみえよということ。学ぶことによって人は語彙が変わり、表情が変わり、声が変わり、立ち居ふるまいが変わる。学校教育は、子どもたちが連続的に別人になることを支援すること。(p.214)
・自己刷新よりも自己防衛が優先するようなタイプの人間は「学び」には開かれていない。頑丈な甲冑で身を固めていて、どんな攻撃にも対処できるという人が同時に知的であるということはあり得ない。知的であるということは無防備であるということだからである。「無防備になれる」というのは高度の社会的能力。大人になっても無防備であり得る人間というのは、周囲の人に害意を醸成することがない人。ある種の人間的理想。そういう人は自己刷新をためらわない。子供時代から大人になる時に、深いトラウマ的経験をすることがなかった幸運な人である(p.218-219)➡最後の部分のみ、ちょっと違う。別の例もある。深いトラウマを、根源的信頼で癒すことのできた人の中にも、「無防備になれる人」がいる。
・読書から愉悦を引き出すことと、テクストを理解することは別の次元の出来事である。(p.238)➡納得。だから私は愉悦の読書は進むが、理解の読書は進まないのだ。内田氏のように、どれもその人になってそこから世界を体験するようになれたら!と思う。