プロフィール-前半-
ぼくの、今に至るまでの
ストーリーを書いてみました。
前半後輩の2部構成
ギュッと凝縮したつもりです。
1|自分に嘘をつき続けた17年間|
ぼくは幼い頃から絵や彫刻、
芸術の世界で自分を表現することに
喜びを感じ、自然に触れ合うことが
無性に大好きな少年だった。
自然や芸術に触れ合っている時は、
時間という概念がないような
気がづくと『今、ここ』しかない感覚が
とにかく心地良かった。
この頃から、芝生に寝転ぶと、
ホームに帰ってきたような
大きな安心感を感じていた。
今ではその感覚が
より強く、大きくなっている。
しかし、福岡のラグビー一家に
生まれた僕は、生まれた頃から
ラグビーをやる以外の選択肢がなかった。
僕の好きとはまるで正反対の世界。
体と体がぶつかり合う毎日が憂鬱で
生きてる心地がしなかった。
この頃の僕の信念は、
『人の期待に応えることが人生のすべてだ』と悟っていた。
自分の生き方を否定しないために、
肯定せざるおえなかった。
家族や周囲の期待に応えるために
自分の想いを塞ぎ込み、
仮面に仮面を重ねて生きる日々。
感覚的な世界に蓋を閉めた
苦痛の17年間
高校では花園までいけた。
しかし、こんな人生に終止符を打つと
腹を括って、
自分の意思で人生を生きはじめた。
2|人体実験を重ねる日々|
スポーツに関わり選手を
サポートする側になりたいという想い
からトレーナーの専門学校へ進学した。
さらに学びを深めるために、
上京してトレーナーと鍼灸の2校へ進学。
計3校で学びを進めた。
在学中からインストラクター、
パーソナルトレーナーとしても
幅広く活動し、毎日を自分で
選択し必死に生きた。
そんな中、幼い頃から抱いていた
皮膚疾患から始まる体の悩み、
全てを一から見直す覚悟をして
人体実験を重ねる日々を過ごした。
学校の授業以外にもセミナーや
講習会に度々参加して学びを深めた。
食や生活を見直すということは、
自分の欲や昨日までの
当たり前に向き合うこと。
3|第三の眼が開眼した|
ある日突然、心の排水溝に
ヘドロが詰まったような苦しさを感じ
気づいたら人の色(オーラ)が
見えるようになる体験をした。
当時、僕は22歳
友から呼吸法瞑想の仙人を
紹介してもらい、
『第三の眼が開眼している』と
伝えられ、閉じてもらう。
それが僕の見えない世界の威力を
体感した初めての瞬間だった。
それからというもの仙人から
呼吸法瞑想をはじめ、
潜在意識の書き替え
(シーターヒーリング)を
学び続けた。
呼吸はとても大切で、
息は『自分に心』と書く。状態はでるところ。
頭頂で宇宙とつながる
7チャクラ(クラウンチャクラ)。
頭は考えるところではなく創造するところ。
本来、宇宙とつながる。
考えるところは、肚。
深い創造世界と繋がることを学び
これまでの定義や概念を
何百と変容してきた。
日常の中のあらゆる選択を
これまでと真逆へと一変してみた。
人とって実はあんまり
ぼくのことを見ていないし、
自身のことも見えていないなと感じた。
西表島で電気のない生活をしたら
自然や人生へ眠れないほどの気づきが
産まれて、体験の価値を再理解した。
肉体的にも
富士山へ毎年登頂、バンジージャンプ
オーストラリアでスカイダイビング。
ハーフマラソン、トレイルラン。
フィリピンで飛び込み。
体に染み付いた恐怖感というリミッターを底上げして、
何にでも挑戦できる自分を。
ビビる自分、会ったことのない自分に出逢うことを繰り返しやってみた。
おもしろかった。
とにかく体験して、興味が
あることを片っ端から経験してみた。
その度に自分の内に
産まれる気づきを拾い受けとった。
4|習慣が人を創る|
鍼灸師として働いていたぼくは、
それが西洋的(現代)な鍼灸のやり方で
日本の大半が東洋の
古典的な鍼灸をしていないと
気づき始めていた。
もっと本質的な治療をしたいと
ヒシヒシと感じている頃だった。
そんな時、父が4度目の
くも膜下出血で倒れた。
倒れている父を目の前に、
僕は何もできなかった。
治療家なのに目の前の大切な人、
一人も救えない自分。
ただ無力感と悔しさでいっぱいだった
それを機に治療家としての
方向性に舵を切り、
古典的鍼灸、東洋医学の道へと
門を開く。
自身の不思議な体験や
東洋医学の学びを通して、
見えない世界や感覚的なものの本質。
そして、その奥深さを知った。
肩こり腰痛をはじめ、
婦人科疾患から難病指定の症状、
多種多様の患者さんと関わる中で
心も体も日々の
【 習慣が人を創る 】と
強く再認識した。
次回、後編は5、6、7完。
5 |ワンネスの体験| からになります。
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