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【短編小説 吉井橋うどん】

「昼は吉井橋に行くか。」

 入社当日の昼休み、その日初めて顔を合わせた会社の先輩に昼食を誘われた。

 言われるままに車に乗せられ10分ほど走って到着した先は、本当に橋だった。その橋につながる道には土手に降りられる場所があり、桜が数本植えられている。先輩は一本の桜の木の下に駐車した。ドアを開けるとちょうど風がサッと吹いた。目の前がピンクになる。ソメイヨシノから花びらが舞い散ったのだ。

 一面の桜に見惚れていると先輩が「さっさと行くぞ」と声をかけてくる。

先輩の背中を追って道を横切る。行く先は小さな小屋。

「ここのうどん、多分一番やな。」先輩が嬉しそうに言う。

 小屋はうどん屋というか製麺所らしい。看板は見当たらない。二十人くらい小屋の外に並んで、ゆるゆると人が小屋の戸の中に吸い込まれていく。反対側の戸から出てきた人はその場でうどんを食べ始める。小屋の店先というより道路上で立ち食いだ。僕はきっと口を開けて見ていたのだろう、「びっくりしたろう」と笑いながら先輩が話しかけてくる。 

「ここ初めての奴を連れてきたら、小屋のルールを説明するのが楽しんだよな。」知識と経験をひけらかすのが嬉しくて堪らない様子。

「みな、吉井橋たもとのうどん屋、通称吉井橋うどんって言う。歳とった爺さんが一人で切り盛りしてるんで、朝方に切ったうどんがなくなったら、その日は終了。昔は婆さんがいて、出汁や薬味を用意してくれてたんだけど、もう五年くらいになるかなあ、婆さんが亡くなってから、薬味も出汁もなくなった。」

「え?出汁もないんですか?」

「そう、醤油だけは置いてくれてるから、いわゆる生醤油うどんって言う奴さ。麺もうまいけど、この醤油もなかなかのもんでなあ。どこの醤油かって爺さんにいくら聞いても絶対に教えてくれないんだ。誰かが爺さんは島の出身らしいっていってたから、親戚が醤油屋でもしとるんかもな。」

得意げに話している先輩だが「もう順番近いですよ」と注意しなければ、小屋に入る前までに小屋のルールまで話が辿り付かなそうだ。ルールを知らなくても大丈夫•••ではなさそうだ。こんなディープな店、約束事を知っていないとどやされるに決まってる。

 前に並んでいる人が小屋の中に吸い込まれていき、もう数人待ちで僕らだ。早くルールを、早くルールを教えて。

「そうやな、ルールやルール。一番大切なのはまず100円玉を右手で握りしめとくこっちゃ。ほら、今すぐしいや。」そう言いながら先輩はポケットをジャラジャラいわせて硬貨を握ったようだ。僕も慌ててポケットから小銭入れを出し握りしめた。

「あかん、あかん。裸で持たな。そんでもってもう二百円くらいポケットの中に入れとき。」

 理由はわからないが、先輩がそうしろって言うんで従った。

「でな、小屋の中に入ったら、左手にテーブルが置いてある。そこに空のどんぶりが伏せて重ねてある。なかったら、の話は今は時間がないけまた後で。

で、どんぶりを取ったら100円玉を握りしめて一歩前に出る。と、そこはカウンターだ。

カウンターに百円玉を置きどんぶりを差し出す。

カウンターの向こうから白い作業服白い帽子を被った爺さんがどんぶりの中にうどん玉を入れてくれる。

そうしたらすぐにカウンターから離れる。

右に行くんだぜ。傾いたテーブルの上に置いてある醤油差しをとり、どんぶんの麺に一回だけ回しかける。二回回すと辛すぎる。

素早く醤油差しをテーブルに戻し、同じく傾いたテーブルの上の箸立てから割り箸をひと組み取ったらすぐに小屋を出る。

で、外でうどんを啜る。さっさと食べて、物足りなかったらどんぶりと100円玉を握りしめて改めて列に並ぶ。」

 先輩が言い終わると、ちょうど先輩の順になり小屋の中に入れた。僕はその後を追って、先輩の仕草を観察する。

 左手片手でどんぶりを拾い上げ、右手で100円玉をカウンターに置き、サッと左手のどんぶりを前に差し出す。まるで流れるような動きだ。

 白づくめの爺さんが右手で100円玉をありがたそうに摘み上げ、額の前で拝む仕草をする。手を下に下ろすとチャランと音がする。何かの入れ物に硬貨を落とし入れたんだろう。後ろを振り向き、セイロの中から左手でうどん玉を掴みあげる。そしてこちらに向き直ってどんぶりに優しく落としてくれる。小さな声で「ありがとな」って呟いた気がした。先輩が振り向き片目をつぶった。

 あっ、先輩の動きに見惚れてたらどんぶりをとり忘れている。タイムラグができたが、白づくめの爺さんは黙ってこっちをじっと見つめている。爺さんに会釈をして落とさないよう両手でどんぶりを拾い上げて、一歩足を出す。どんぶりから右手を離し、「これ」と言って100円玉をカウンターの上にそっと置く。爺さんはやはり右手で硬貨を拾い上げ、拝んで下に落とす。チャリン。振り向いて麺をセイロから取り上げて、そこで動作が止まった。どうしたのかと思って爺さんを見つめると「はち」と呟く。

『えっ?はち?蜂がいるの?いや、箸か?箸は後で取るんだったよな』ちょっとパニクッた。後ろから太い金のネックレス をした年配の危なげな格好のオッサンが「にいちゃん、どんぶりださんと麺入れれまいが」といってくれる。『ああ、ハチって鉢のことか、どんぶりね』そうそう、左手のどんぶりは抱えたままだ。慌ててカウンターの上に差し出す。爺さんは苦笑いしながら「兄さん、初めてか、うまいぞ。ありがとな」と、言って麺を入れてくれた。爺さんからも後ろの金のネックレスオッサンからも怒られるんかと一瞬思ったが、優しくされてほっとする。

『ええと、醤油をかけるんだったな、あれ、先に醤油をかけたら麺を温められないじゃん、って言うかテボはどこにあるん?』

 聞こうにも先輩はすでに小屋の外のようだ。さっきの金ネックレスオッサンが後ろにいる気配がある。えーい、ままよ聞いてしまえ。

「あのう、すみません。どこでうどんを温めるんですか。」

「ははは、にいちゃん、ここはそのまんましかないで。出汁のあった昔も麺は温めんでそのまんまだけや。そのまんまが一番うまいけえの。」

 外に出るとうどんを啜っていた先輩がこっちこっちとばかりに箸を持った手で手招きする。

 道路に立って食べてるサラリーマン。桜の下で腰を下ろして食べるご婦人。土手へ降りる坂道の端に尻をつけて足を投げ出して食べる作業服のにいちゃん。

 桜の木の下、時折花びらが散る、暖かい日差し、美味いうどん、みんな笑顔だ。いいですね、先輩に微笑んだ。「そうやろ、なんもかもが薬味になる。ええ店やろ。」うどんを啜りながら頷く。

「もう一杯いこか」にこやかに先輩が言う。当たり前ですよ、こんな美味いうどん、一杯で終われる訳ない。右手でポケットの硬貨を探った。

 二杯目を味わうときには、周りの人の表情だけでなく、食べ方も観察する余裕ができた。

 薬味が何もないからか、工夫をしている人が多い。

ポケットから七味の赤い小瓶を取り出して振りかける人。ラップに包んできた刻みネギをどんぶりにかけたりしている人がいる。お、金ネックレスオッサンはチューブを握っておろししょうがを捻り出している。

 少し離れたところで、納豆のパックを必死でかき混ぜる人もいる。納豆を食べる文化ではないこの地方では、その匂いも、ダメな人もおり、納豆うどんおじさんの周りには誰もいない。納豆おじさん気を遣って離れたところにいるんだな。でもズルズルと音を立てて食べるおじさんは幸福の極みのような表情をしている。

 一番驚いたのが社用車のボンネットにどんぶりを置いた営業職らしいビジネスマン。おもむろにカバンの中から取り出したのは、パックに入った天ぷら。多分レンコンか。スーパーで買ってきたんだろうな。それをどんぶりに入れた後、何と車の中から魔法瓶を取り出し、蓋を開けて丼に注ぐ。色から推察するに鰹出汁に違いない。続いてカバンの中から出てきたのは保存容器に入った刻みネギと丸のままの生姜。カバンから出てきたおろし器を使って生姜を下ろす。まだ出てくる。ゴマスリ機。ゴリゴリ音を立ててすりごまづくり。まさにうどんトッピングのオールスター勢揃い。他の人たちも羨ましそうに見てる。「あの人変わってるね」とでも囁きあっているような主婦の方々。あなた達、きっと明日その マネをするでしょう。

 三杯目も行きたかったが、小屋の前の行列がかなり長くなっている。駐車する場所を探す車も数台。先輩が肩を叩いて「他の人に譲ろうか」と帰るそぶり。かっこいいやん。

 空のどんぶりと箸を握りしめて先輩は小屋の裏手に向かう。いそいそとついて行く僕。初めて会った先輩、素晴らしい場所に連れてきていただきありがとうございます。明日も来ましょうね。いつ言葉にしようかと思っているうちに、裏手に出る。

 足洗い場のようなところにどんぶりがいくつも重なって幾つかの山ができている。

「食った後のどんぶりはここの水道でささっと洗って、ここらに伏せておく。」

 箸は水道の横に置いてある一斗缶の中に捨てるらしい。その横にはバケツの上にザルが据えられている。

「食べ残しはここに捨てるみたいだけど、残飯があるのをみたことがないんだよな。」先輩、当たり前ですよ。こんな美味いうどん残す訳ないでしょう。

「まあ、出汁も薬味もないんだから残しようがないわな」大笑いする先輩。

「そうそう、小屋の中にどんぶりがない時にはここから持ってくるや。だから綺麗に洗っておかんといかん。」先輩は足洗い場の前に腰を下ろし、置いてあるスポンジに、やはりおかれている洗剤ボトルからチュッと洗剤を出し、泡を立ててどんぶりを洗い出す。

「今日は新人の君のも洗ってあげよう」笑いながら泡だらけの左手を差し出してくる。「いえいえ、自分でします」と遠慮するが「入社日だけだから」とどんぶりをひったくる先輩には逆らえない。「ありがとうございます」と頭を下げる。いつの間にか後ろに立っている金ネックレスオッサンがニヤニヤして「明日も来て、次はにいちゃんが洗ったりな」と言う。黙って頭を下げる。うん、明日は先輩のどんぶりを僕が洗う。なんなら金ネックレスオッサンのも洗おうか。

 オッサンの声を聞いて先輩が中腰のまま半歩横に寄る。ありがとさんと金ネックレスオッサンが腰を下ろし、先輩からスポンジを受け取りどんぶりを洗い出す。

 水飛沫を立てないように少しだけ蛇口を捻り、先輩がどんぶりを濯ぐ。

お先にとオッサンに仁義を切り、二つのどんぶりをどんぶりの山にかぶせる。振り向きもせずオッサンはおおと言う。金ネックレスをキラキラさせながら真剣にどんぶりを洗っている姿は全くサマにならない。でも次のお客さんのためにと言う意気込みは十分すぎるくらいに感じる。

 車に戻り助手席に座るなりぼくは先輩に聞いた。

「あの金ネックレスのお方をご存知なのですか」

「いや、知らん」

「なんかお知り合いのようでした」

「あの店で食べてるとみんなが同志、って感じになるんよ。不思議やな。知らん人とでも笑って話せる、あそこで怒ってる人は見たことない」くすくすと笑いながらハンドルを握る先輩。そりゃあのうどん食べたら笑顔になる。ディープな空気で、みんな共犯者、仲間になるんだな。先輩、本当にありがとうございます、僕を共犯者の中に入れてくれて。でも、照れくさすぎて言葉に出せない。

 翌日から仕事の日は毎日吉井橋に通った。


 雨が少ないこの地方、今春は特に雨が降らず長く桜を楽しめたが、今日は朝から雨。職場ではダムの水がなくなりそうだったから、やっと雨が降ってよかったとあちこちで話がされている。なんでも昔ダムが干上がり、時間断水で風呂にも入れなかったどころか飲み水にも事欠いたことがあったらしく、その頃のことを知っている世代は雨が降らずに水不足になることに敏感らしい。

 僕はそんなことがあったことは知らない。逆に雨が降ったことがショックだ。

 吉井橋うどんでは外で食べるのがルールだから雨の日は一体どうなるのだろう。聞いたらきっと大喜びで教えてくれる先輩は昨日から東京出張でいない。

 どうなっているんだろう、どこで食べるんだろう、雨天休業ってこともあるな。

 色々考えながら一人で車を走らせた。

 吉井橋に着くと、いつもより少しは人数は少ない気がするが、それでも行列ができている。皆傘を差して入店を待つ。傘の大きさだけ行列の長さはいつもより長い。大体いつもこの時間だと並ぶ場所から10メートルは離れている。

 遠くに見える小屋からどんぶりを持って出てきたサラリーマンが片手で傘をさし、傘の柄を肩に預けて、うどんを啜る姿は粋としか言いようがない。流石に社用車ボンネットの上で薬味を広げるビジネスマンはいない。皆傘を肩に凝った薬味なしで醤油うどんを楽しんでいるように見える。

 やっと僕の番。左手でどんぶりをすくい、右手でコインをカウンターに。どんぶりに麺を受け取り、右に移り醤油差しを取ろうとして驚いた。婆さんがふたり、傾いたテーブルの前に手押し車を椅子にして、お食事をされている。僕の前の三十代くらいの工員さんが「すみません」と言ってお二人の間に手を入れて箸を取っている。お二人は「邪魔でごめんね」と頭を下げる。工員さんはそんなことないですよ、ゆっくり食べてくださいねと笑いかけどんぶりと箸を片手に出て行った。外で片手で器用に傘を広げているのが見える。

 僕も失礼しますと醤油差しに手を伸ばす。

 お一人が「ああ、私が」と醤油差しをとってくれる。ありがとうございますと醤油差しを受け取ると、もう片方の方が「ごめんね、雨だからここで食べさせてもらってるの」と弁解する。

「何をおっしゃっているんですか、雨だから仕方ないですよ。どうぞごゆっくり」自分でもびっくりするくらいスムースに言葉が出た。そのことに自分で驚き、醤油をひと回しして醤油差しをテーブルに置き、逃げるように小屋から出ようとした。その途端お二人が声を合わせて「お箸は」と声を上げた。慌ててたんで箸を取るのを忘れていた。その瞬間、照れ隠しでもなく腹の底から笑えた。「ハハハ」大声で笑うと、お二人も「ふふふ」。後ろのお客さんも「ハハハ」。白ずくめの爺さんも「へへへ」と笑ったような気がする。お一人が箸を手渡してくれた。素直にありがとうございますと言えた。

またもやお二人が声を合わせて言った。「ごゆっくり。」お二人が顔を見合わせて「フフフ」と笑う。小屋の中に緩やかな風が吹いたような気がする。小屋からでて傘を広げる。渡された割り箸を口に咥えてから割る。うどんを啜る。ニヤけてしまうのはうどんが美味いからだけではないはず。



 一体何食作っているのか打つ麺の量も気分次第らしいし。

 爺さんが前の晩に打って寝かせた生地を朝から切っていく。切った麺全てをゆがいてせいろに並べ終えると開店らしいので、その時間もまちまちらしい。

 うどんをこねる時には温度とか天候とかによって水や塩の量を微妙に変えるらしい。だからここのうどんは美味いと先輩は言うけど、でも一晩寝かせたら天候も温度も変わるんじゃなかと思うのだが、それを先輩に言ったら怒られそうで言えない。

 とにかくこんなうまううどん、どこかの名店で修行したのか、暖簾分けしてもらったのか、いやいや実は隠れた名店で他の店の師匠格なのかも。

 常連たちの噂話では、昔は高級料亭への麺の卸専門だったとか、いや爺さんがうどん料亭をしていたらしいとか、中にはバブルが弾けて失業した爺さんが製麺所をし始めたとか、自分の好みのストーリーで伝説を作って語っている。

 僕ならこう話してみせるな。

 島で兄弟でうどん屋をしていたけど、兄弟喧嘩をして弟は島を出た。そしてこの街で婆さんと出会ってうどん屋を始めたけど、売れない。そんな時に兄さんが醤油瓶を持って島から出てきた。俺の作った醤油でうどんを食べてみてくれ。この醤油うどんがめちゃくちゃうまかった。あ、婆さんがいた時には出汁があったんだ。これはボツだね。



 地元の人なら知っているかもなあ、と思いながら丼を洗っているといつぞやのご婦人お二人が食べ終えたのかどんぶり片手にやってくるではないか。これはチャンスだ。

 よっこいしょと腰を下ろすお二人に場所を譲り声をかけた。

「地元の方ですか?」

「そうよ、二人ともこのすぐ近く。」

「この店は美味しいですね、ここのうどん僕大好きになりました。」

「そうよ、私たちも大好きなの。」

「ここは昔からあるんですか?」

「そうよ、ずっと前からね。」

「毎日通っているうちにこの店の歴史を知りたくなって、他人にも聞いたんですが、みんな言うことがバラバラで、、何が本当かよくわからないんです。」

「あらー、そうなの、みんな好きなように噂するわよね。」

「で、お二人なら知っておられるかなって。もしよければお教え願えればとら思い、声をかけさせていただきました。」

「まあ、、嬉しいこんなおばあちゃん二人に声をかけてもらえるなんてねえ。出血大サービスよ、このお店の真実をあなたに教えてあげるわ。」

 一人がそれは嬉しそうにこちらを向いて微笑んだ。まるで僕を初めてここに連れてきてくれた先輩がルールを教えてくれた時の表情と一緒だ。

 もうお一人は、二人分のどんぶりを、洗い出した。

「あの方はね島で板前をなさっていたの。お店は島で一番どころかこのあたりで抜きん出て評判の高級料亭で、あの方はその料亭で次の花板と言われていたらしいわ。でもね、よくある話よ、あの方は料亭の一人娘さんと恋に落ちたのよ。それがご主人に知られて、もちろん反対されて。あの方は身を引こうとしたのだけど、娘さんは全てを捨てて一緒に暮らしたいと、二人船に飛び乗って、逃げるように島を出たの。この街でその腕を生かそうと幾つものお店を訪ねたけどね、いくら腕が良くても老舗料亭から破門状が回されていては、あの方を雇おうなんて思うお店はなかったわ。それでね、お二人は自分たちの店を出そうとしたの。けれども魚河岸にも破門状は回っていてお魚を売ってくれる人もいなかったの。困ったお二人はお魚を扱わないお店にしようと考えたのね。それがこの製麺所。さすがあの方よ、腕は達者なんだから作る麺はそれは美味しくて。あちこちから卸して欲しいと注文が入ったの。お二人だけでは無理だと人も雇ったわ。その方が提案して機械もい入れて大量におうどんを作れるようになったの。もちろん大金持ちになったわ。自分で包丁も使わないようになって、あの方は遊びを覚えたの。悪い連れもできあっという間に坂道を転げ落ちて、借金だけが雪だるま式に大きくなった。雇った人は悪い人で製麺所も乗っ取られたの。あら、これではこの製麺所がなくなってしまうわね。ほほほほ。」

「また冗談ばっか、加代ちゃんはドラマの見過ぎよ、勝手に話を作っては失礼よ。」

「でもワクワクドキドキしたでしょう。ほほほ、テルちゃんが本当のことを教えてあげなさいよ。」

 どんぶりを洗い終えたご婦人がよっこいしょと腰を伸ばして話し始めた。

「二人はここで卸専門の製麺所をしてたの。看板も出していない卸専門だから地元の私たちも何かの食品工場くらいにしか思っていなくて、おうどんを作っているのも知らなかったの。

うどん好きのある人が、このうどんは卸だけでは勿体無い、自分で店を出してたら良いと強く助言されたそうよ。

ちょうど体力も落ちてきて、注文量を決まった時間までに麺を打つのはもう無理と思っていたから、やってみようかって。

でも製麺所を改装してお店までにする余裕がなかったから、玉売りのお店にしたのよ。

私たちもよく買いにきたわ。

そのうちここで食べられないかって言うお客さんが増えて、店先で食べれるように奥さんが出汁をつくってくれてね。今とおんなじで道端で食べたの。

それだけ。ドラマなんてないけれど、そりゃご夫婦仲良くされていたわ。でもね奥さんが急になくなられて、ご主人もがっくりなさってね。もう終いと言われていたんだけどね。

あんなおいしいおうどんが食べられなくなるのは地元の損失だって、何人もの方がご主人を説得されて。

出汁は女房しか作れねえから無理だと固辞されたんだけど。そこでね、ある方が自分の知っている島の醤油屋に頼んでこのうどんにぴったりの醤油を作ってもらうから、醤油うどんの店にしてくれと拝み倒したの。

醤油を試してから考えるとご主人は言っていたけど、多分その時にはもう再開するって決めていたと思うわ。

出来上がった醤油はご主人のうどんにまるで奥様とご主人が寄り添ったかのように、合ったのよ。

ご主人はそりゃ喜んでね、あいつと一緒にいるようだと。

ご主人お金を渡すと拝んでいるでしょう。

あれはきっと醤油まで準備してくれ再開を後押ししてくれた皆さんへの感謝なのよ。」

 話し終えたテルちゃんはしんみりと俯いた。

 僕もウルウルきたが、いや、あまりにも話ができすぎている。奥さんが亡くなるまでは信憑性が高いが、その後はでき過ぎている。

「これももっていますか?」恐る恐る尋ねた。

「もっているってどういう意味?わからないわ。若い人の言葉はさっぱりね。ほほほほ。」

 うーん、これはもっているなあ。

「なあにその顔、信じられないの?ほら加代ちゃんが悪戯するから私の話も信じてくれないのよ。

せっかく若い人から話かけられたのに。」

「いいのよ、みんながそれぞれこのお店を大切に思って、それぞれのお話しを大切にするって言うのが、このお店の魅力なのよ。」

「あら、加代ちゃんいいこと言うじゃない。」

お二人が仲良く笑い合う。

 この小屋にどんな歴史があるかはわからないけど、うまいうどんという事実は間違いない。

 何しろ時間が経っても角がピンと経っている。釜揚げして水で締めたてのうどんはどんなに美味いんだろうか。開店時間前に並んだら食べられるのかもしれない。

 聞けば卸専門の製麺所に丼と醤油持参で麺を分けてもらいその場で食べると言う強者もいるらしい。

 僕は会社の昼休憩にうまいうどんを食べられればそれで満足だ。毎日顔を合わせていると爺さんの素っ気ない仕草にも親しみが湧いてくる。

 ある時「ありがとな」と言われて「こっちこそありがたいです、こんなうまいうどん食べさせてもろうて」と返すと、爺さんの手が止まってびっくりしたような表情をした。それが崩れて笑ったような気がしたが、爺さんは俯いてしまったのでわからない。後ろに並んでいたオッサンが「にいちゃん、いいこと言うね、爺さん照れてやんの。まあ、ほんまにうまいもんな」と言うと、その後の客たちがうまいうまいと声を上げた。その人たちを待たせるわけにはいかないので、さっさと醤油を回し入れ、箸を掴んで小屋の外に出た。まばゆい太陽の光を浴びて額に汗が滲んでいた。爺さんに話しかけ他のお客さんともコミュニケーションとったんで、何か心がグリグリっと揺れている。僕もやっとこの小屋の常連になった気がした。


 先輩は離れた街の支店に転勤となった。

 出張で来るなら別だが、営業の途中にちょっと寄ってみたという距離ではない。

「吉井橋のうどん、食べられなくなるなあ。後輩が入ったら吉井橋に連れていつまでやってくれよな。」送別会での先輩の最後の言葉がこれだった。

もちろんですよ、先輩のヨシイバシスト魂受け継ぎます。

 季節が過ぎていくと、僕も食べ方が変わってきた。

 僕が昼休みにうどんばかり食べにいくと知った総務課の年配の主任が『うどん食べるんは仕方ない、けど一緒に野菜食べるんで』とお袋のように説教をしてくれた。

「うどんはうまい。毎食食べても飽きんわな。でもな、うどんしか食べていないと健康診断で引っかかるんで。糖尿になるって、うちもこないだ栄養指導されて言われたんや。うどんとおにぎりは最高の組み合わせやけどそれも気いつけんとな。要はうどん食べる時には野菜食べないかんゆうこっちゃ。」

 それも一理ある、「検診で引っ掛かったら面倒臭い」と先輩も言っていたんで主任のお節介、いやご助言を素直に聞き入れよう。でも吉井橋にはサイドメニューがありません!!

 そうだ、社用車ボンネットビジネスマンの真似をすればいいんだ、持参持参。野菜を持参。

 帰宅してほうれん草をゆがいて水で締めてお浸しを作った。保存パックにつめて胡麻を振った。これをポケットに入れ吉田橋にいく。一杯目は素直に醤油うどん、二杯目は醤油うどんにお浸しをのせて食べる。なかなかこれが美味かった。これをしばらく続けて、はたと思いついた。お浸しに大根おろしを添えてみよう。

 家でお浸しを作ったあと、大根をおろす。大根汁ごと冷蔵庫で寝かせておく。朝になったら、ぎゅっと汁を絞って、水気なしの大根おろしとほうれん草をパックに入れる。これでうどんを食べるとたまらなく美味い、美味い、美味い。

 ほうれん草に大根、二つの野菜、それと胡麻、健康にいいに違いない。

 毎朝の日課となった大根おろしの水気絞りをしている時また閃いた。いつも捨ててるこの絞った汁、勿体無いんじゃねえ?

 別の保存パックに汁だけを入れる。大根おろしには柚子か酢橘だわな、昼休憩になったらまずスーパーで仕入れようと決めた。包丁を持って歩くわけにはいかないから職場の事務付けの引き出しの奥に眠っていたカッターナイフを持ち出した。

 一杯目は王道の醤油うどん、二杯目はほうれん草のお浸し大根おろし添えうどん、そして今日は三杯目もいこう。醤油うどんに大根汁をかけ、スーパーで特売していた酢橘をカッターナイフで真ん中から切って、半球をギュッと握りつぶして果汁をかける。清々しい香りが一気に周囲に広がる。立ち食いしている何人かがこっちを振り向いた。やっぱ酢橘は最強だぜ。ずるずるっと麺を啜る。大根汁の辛さに酢橘果汁の酸味、醤油のしょっぱさ。まあ、なんと、さっぱりして最後の締めに啜るのにこれほど良いとは思わなかった。締めのはずなのにもう一杯食べたくなるが、流石に四玉はいかんやろと我慢した。

 僕の食べ方に頷くお客さんもいて、これから流行るかもなと一人ニヤついた。


 今日は列ができていない、だけど人はいる。閉まった戸の前に群がっている状態。

「休みなんかな」口々に行ってしばらく待っても動きがないので、ひとり、またひとりと去っていく。ここが開いていないのなら、皆んな他で昼飯を確保しないといけないのだ。

 翌日も、翌日も小屋は開いていなかった。

 その次の週、小屋の戸に「主人が亡くなったので閉店します」と張り紙がされていた。貼り紙の前で「ええ歳やったものな」「病気やったんかな」「こないだまで元気そうやったののにな」見知った常連さんが肩を落としている。金のネックレスのおっさんが仕切りに目をゴシゴシしている。とても声をかけられる様子ではない。居たたまれずに小屋の前を離れた。先輩に連れられて初めて来た時とおんなじで、風が吹いた。けれど今日は砂埃がたっただけだ。

「メシ食べれるとこ、どこか見つけないとな。」

 車に戻りドアを閉め、小屋に手を合わせた。「ありがとな」爺さんの口癖を真似して、目を閉じた。涙が流れたけどさっきの風で目に砂が入ったからに違いない、きっとそうだ。

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