闘病記(2019年9月~12月頃①)
発端は奥歯近くの口内炎
2019年の夏、僕の人生はまさに順風満帆と言ってよい状態でした。
46歳の誕生日を迎え、父から継いで10年が経つ事業も順調に推移し、M&Aにも成功し、支工場を設立。毎年花火が見える日に海に隣接した工場で実施していた「お客様感謝フェア」にも沢山の来場があり、多くのお客様に囲まれ、会社の代表として充実感でいっぱいの時を過ごしていました。
また、事業に関連した業界団体のリーダーとして地域を統括する役割に任命され、同業者との交流を深め、業界の啓蒙および広報活動に勤しみつつ、地域への社会貢献のために3年前から所属した公共慈善団体の会員としても、翌年度に幹事という大役を打診されるなど、今思い返しても様々な役割を楽しみながらも全うし、十分とはいえなくてもそれなりに社会への貢献と良い影響を周囲に与えられていたのではないか、と自負するところでした。
もちろん、私生活でも愛する妻とかわいい息子、娘に囲まれ、休みになれば、子供達の幼稚園時代からの仲良しのご家族と一緒に工場見学にお出かけしたり、妻の実家である土浦に帰っては、庭でバーベキューをしたり楽しく過ごしていました。特に家族と過ごす毎年の誕生日は、自分のお祝いというよりも妻との時が深まったことと子供たちの成長を感じる大好きなイベントでした。
そんな46歳の誕生日が過ぎたころ、右上顎の奥歯のさらに奥に口内炎様のものができているのに気が付きました。
その口内炎はあまり痛くもなく、腫れたりもしなかったので、一時的なものだと思って市販薬などを塗り過ごしていましたが、一向に良くなりませんでした。それでも、お盆休みに妻の実家である土浦に帰省した際、バーベキューで肉を食べている時に妙に気になり、自宅に戻って落ち着いたところで病院に行こうと決心したのをよく覚えています。
今思えば、妻の実家は膵臓がんで早世した妻の父が眠る土地であり、妙に気になったのは、妻の父が僕に危機を教えてくれたのかもしれません。「お前は生きなきゃならん」と。また、同年の2月頃にタレントの堀ちえみさんが口腔がんであることを公表し、発見の経緯がいわゆる口内炎であることを知っていたこともありました。そこで「まさか自分が」と思いつつも、念のためにがんの可能性を消しておきたい思いがありました。
8月の末に歯科にかかると、担当した歯科医は一見して、「これはもうちょっと詳しい先生に診てもらった方がいいね」との一言。「念のための診察だけども、少なくとも普通の口内炎ではないと思う」とも言われ、翌週の口腔外科医師の担当日に再度診察を受けることとなりました。正直、この時は狼狽しましたが、この段階では口腔白板症や他の疾患の可能性もあったので、あまり深刻にならず、希望を持ちながら一週間過ごしました。
翌週、同じ歯科で口腔外科医に診てもらうと、医師の顔色が変わるのがわかりました。
いや~な空白のあと、「大きな病院で診てもらいましょう」と一言残したあと、医師はすぐに紹介状を書き始めました。頭の中の「希望」の二文字は跡形もなく吹っ飛び、これはタダゴトではないと思いつつ、「どちらの病院になりますか、僕もいくつかの病院に知り合いがいるもので、、、」と絞るように言うと、封筒を見せられました。
その紹介状の宛先には「癌研有明病院 ○○先生」と書いてありました。
手が、足が、そして体がガタガタ震えるのがわかりました。その震えは自分では抑えられないものでした。少なくとも歯科医と口腔外科医が診て、紹介状の宛先が「癌研有明病院」なら、がんの宣告を受けたものも同然のことと思いました。
「なんで俺がこんな目に」「何がダメだったんだろか」「仕事のし過ぎだろうか」「これで死ぬんだろうか」など、様々な後悔や思いが去来しました。パニックに近い状態で次に何を言うべきか何をすべきか考えがまとまりません。とにかく自分を責める気持ちと原因を追究する考えが湧き出てきます。
その後、どうやって先生と会話を終え、会計して歯科を出てきたかよく覚えていませんが、力なく近くのコインパーキングに停めてあった愛車に乗り、感情が落ち着くとすぐに妻の顔が浮かんできました。前述した通り、妻は高校生の頃に父親をがんで亡くしていました。そんな経緯から、結婚した時に、父親として伴侶として末永く妻と一緒に生きようと強く思っていました。その妻に自分ががんである可能性を告白するのは、とても悲しく、やるせない思いがしました。
意を決して妻に電話しました。
自分を落ち着かせながらも矢継ぎ早に診断の経緯と次の指示について説明しました。何か喋っていないと、崩れてしまいそうな感覚があったからです。
医師の見立てがただの口内炎ではないこと、来週の頭に癌研有明病院の頭頸科(とうけいか)の予約を取ってもらっていること、入院を前提に家族や会社に説明や身辺の整理が必要になるということなどを一気に話しました。会話の最後に「こんなことを話さなければならなくなって、ごめん」と話すと、あふれてくる涙と悔しさややるせなさなどの感情を抑えきれなくなり、「あ~ん(濁音交じり)」と号泣したのを覚えています。
それでも、妻は冷静に、まだ「がん」と決まったわけではないこと、もしそうだったとしても、翌週から休みに入るので、つきっきりで診察に付き合ってくれると言ってくれました。この時は、妻の転職時期に重なり、翌週からは有給消化のための長期休暇に入るところだったのです。「パパのサポートをするための転職だったんだね」と明るく言われ、号泣しながらも気持ちが楽になり、やっぱり妻と結婚してよかった、と思いました。この後も妻は常に僕の支えになってくれました。