あの頃のアントニオ猪木 '89&'99
「アントニオ猪木が死んだって!」
まさかプロレスにまったく興味ない嫁さんから、アントニオ猪木さんが亡くなったことを真っ先に知らされることになるとは、思わなかった。
メキシコに渡りプロのレスラーになり、引退後プロレスカメラマン、記者として活動するようになったが、残念ながら猪木さんとは全く面識がない。あくまで一般人として、いちファンとして少しだけ接することができた「アントニオ猪木」を書き記してみたい。
1989年7月、皆さんご存知のようにアントニオ猪木さんは、スポーツ平和党から参院選に出馬した。その選挙活動中のこと、アントニオ猪木による「学生決起集会」が行われるので、都合のつく人は参加してくれ、という連絡が回ってきた。
大学在学中の当時、ぼくは「関東学生プロレス連盟」に加盟する大学のプロレス研究会に所属していた。学生プロレスのネットワークには、こういったイベントやバイトの誘いがしばしばあった。
銀座のヤマハホールで行われた決起集会には、ボクたち以外にも多くの若者が集まり、檀上の猪木さんへの質問が行われた。当時はプロレスラーアントニオ猪木の姿しか知らなかったので、プロレスではなく政治の話ができるのか、などひやひやしながら見ていたが、そんな心配をよそに猪木さんは質問に答えていく。会場に集まった学生たちも同じ感覚だったようで、会が進むにつれ場内の緊張はとけ、なごやかなものになっていった。しかし一人の男性の質問が会場の空気を一変させた。
「アントニオ猪木さんわぁ、参議院議員ギインの政治でぇ、世界の平和を日本にもできてぇ・・・」
和気あいあいとしたムードの中、背後からタマが飛んできて頭上をかすめたかのような衝撃だった。言っていることが支離滅裂で、何が聞きたいのかさっぱりわからない。
ちなみにこの男性は、開場前に待っていた階段通路でスクワットをしていたのだが、手と足の動作が逆で、ものすごい不自然な動きをして周りの注目を集めていた。おかしさに気づきはじめた場内からはざわめきが起こり、それは徐々に大きなものへと変わっていった。
アントニオ猪木大ピンチ!どう切り抜けるんだ!?
やがて話していた男性は疲れてしまったのか、声のトーンがだんだん落ちてきた。そのタイミングを見計らうかのように、猪木さんが口を開いた。
「世間ではとやかく言う人もいますけど、何はともあれ世界中が平和でありますように!ということでね!」
あまりに見事なまとめ方に、会場からはこの日一番の拍手と歓声が沸き起こった。
選挙の結果は見事当選!プロレスラー初の国会議員の誕生となった。時を同じくして、ボクたち学生プロレスの試合がテレビ特番で放送されることになり、ゲストとして猪木さんが来場することになった。当時の学生プロレス代表の話によると、「ダメもとで制作会社が猪木さんにオファーしたら、選挙当選後のテレビ出演依頼の殺到に紛れてて、内容も確認せず受けてくれたみたい。」だったため、アントニオ猪木が学生プロレスのリングに上がるという、奇跡が実現してしまったのだ。
真夏の夜、ナイターの照明がたかれたテレビ収録は、神宮外苑にある明治公園で行われた。ボクはこの日、セミファイナルで4対4のイリミネーションマッチに出場。早々にフォール負けして、一番目に退場となってしまった。そのため試合中、リングサイドで手持ちぶさたの状態が続いていたので、終了のゴングが鳴ると足早にその場をあとにした。途中リングの方を振り返るが、まだ試合した仲間たちはだれもこちらに戻ってこない。
「引き上げるのがちょっと早すぎたかな?」
後方のリングをチラチラ見て気にしながら、花道を引き返していると、目の前に人の姿が見えた。ぶつからないようにボクはちょっと軌道をずらしつつ、歩みを進めたのだが、その人物がボクの前に一歩踏み出してきたため、身体がぶつかってしまった。
「こっちがよけてるのに、ふざけた奴だな。」
ムッとしながら、ボクはそのまま花道を進んだ。再び後方に目を戻すと、こちらに戻ってくるパートナーの強力ゲロ吉ときゃんきゃんの姿を見えた。二人は笑顔で誰かと握手している。
「試合に負けたのに、花道で笑ってるのはまずいだろ!?」
と一瞬思ったが、二人が握手しているのは、アントニオ猪木さんだった。さっきボクがぶつかったのは、メインイベントの立会人としてリングに上がるべく、花道で待機していた猪木さんだったのだ。しかも、気づかず素通りしようとしたボクに、あえて一歩踏み出して気づかせようとしたのだ。そういえばぼくの頭は相手の胸に弾むようにぶつかったので、普通であればその身体の大きさで気づくべきだったのだ。ぶつかった時の不機嫌さはあっという間に消え去り、恥ずかしげもなくボクは猪木さんのもとに駆け寄って握手してもらったのだった。
それから10年後の1999年5月のこと。プロレスラーを引退した直後のボクは、メキシコで観光ガイドの仕事をしていた。その日は朝7時発の飛行機に乗り、ロサンゼルス経由で日本に帰るお客さんを、空港ホテルから飛行機の搭乗口まで案内することになっていた。
朝5時のホテルロビーは人の姿も少なく、まだ誰もがぼんやりとしている。ボクも寝ぼけまなこでソファーに座りながら、この日のお客さんを待っていると、さっそうと歩くアントニオ猪木の姿が目に入った。不思議なことにそれまでまどろんでいたロビーは、一気に明るくなったように感じられた。どこから集まってきたのか、いつの間にか人も増え、猪木さんの姿に気づいた日本人観光客たちが握手を求めていた。日本人以外の人たちも、猪木さんに目が向いている。おおげさでなく、誰もが引き寄せられるスーパースターのオーラがあふれ出ているのだ。ボクが案内する年配の男性一人、女性二人のお客さんもロビーに降りてくると猪木さんに気がついた。
「みなさんとご一緒のホテルに、猪木さんも泊まられていたんですね。」
と談笑しながらチェックアウトを済ませ、直結の専用通路を使い、徒歩で空港に向かった。メヒカーナ航空カウンターで搭乗手続きを済ませて、乗り場の説明をすると、男性客が「ロサンゼルスでの飛行機の乗り継ぎがわからない」と訴えてきた。
当時ロサンゼルスまではメヒカーナで行き、そこからJALに乗り換えて成田までというのは、日本までの帰国によく使われるパターンだった。この乗継ぎは、ロサンゼルスでアメリカに入国する必要がなく、飛行機を降りたところで日本行の案内表示を持った係員が待っていてくれて、待機室まで連れて行ってくれるのだ。日本行の飛行機にもそのまま誘導してくれるため迷うこともなく非常に楽なのだが、何度説明しても男性客は「わからない」の繰り返しだ。とりあえず搭乗口まで向かおうと歩き出すと、猪木さんが同じメヒカーナ航空のビジネスクラスカウンターでチェックインする姿が見えた。
「猪木さんもみなさんと同じ飛行機で、日本まで行くみたいですね。」
と話しながら歩を進めると、男性客がついてきていないことに気がついた。えっと思い、後ろを振り返ると、カウンターでチェックインする猪木さんに話かけているその男性の姿が目に入った。
「何してるんだ、あの人は!!」
こっちはまだレスラー時代の感覚が残っているので、猪木さんに気軽に話しかけるなんて恐れ多く、常識を逸脱した行為と感じたのだ。あわてて駆け寄ると、猪木さんに話しかける男性の声が聞こえた。
「ロサンゼルスでどうやって、飛行機を乗り換えたらいいのかわからないんですよ。」
よりにもよって、なぜそれを猪木さんに聞いてるんだ!?ボクがあせっていると、猪木さんが口を開いた。
「旅は道連れといいますからね、一緒に行きましょう!」
まさかの対応に驚き、腰が抜けそうになった。搭乗口まで一緒に向かうと、3人のお客さんは猪木さんと一緒に手荷物検査を受け、中に入っていったのだ。
ボクのエピソードは、マンガ「1.2.の三四郎」の三四郎たちと、猪木さんが出会うシーンぐらい、意味もなく発展性もないものだ。でも「アントニオ猪木」について、何かを書くことは今までも、これからもないと思うので、この機会に書かせてもらいました。月並みな言い方ですが、これまで猪木さんのおかげで、楽しい人生を送ることができたと思っています。本当にありがとうございました。