猛々しいかな、令和六年
そろそろ、暮れの足音が聞こえるようになり、1年を振り返りたくなってくる。今年の一文字は「猛」だろーと思う。こんな猛暑はもう、うんざりだとみんな思ってるから。来年は猛暑が続くと予想されるので「続」なんて。
今年のニュースから思い起こすのは、「令和の米騒動」と「闇バイト」
今年の夏に起きた「令和の米騒動」。その正体は、猛暑から来る米の不作。そして、供給と需要の変化がもたらしたコメ争奪戦の最終局面だった。 最も弱い立場だったのは、流通の末端にいる一般消費者。 商品棚からコメが消え、メディアが「令和の米騒動」と煽るなか、パニック買いした人も多かった事が記憶に新しい。誰もがふつうに生きていたい。いまや、大震災後にクルマのガソリンが半分になったら入れるのがひとつのライフハックになったように家庭にお米のストックがあるのも当たり前になってるんだろう。
そして、「闇バイト」。NHKでドラマ『3000万』が放映されてるけど、なかなか良くできている話。そして、タイムリー。とうとう、安達祐実と青木崇高夫妻は闇バイトに巻き込まれてしまった。巻き込まれたのではなく、突っ込んでいったといえば良いか。その闇バイトへのロードマップには貧困が出発点にある。貧困と言っても相対的貧困。国や地域の水準と比較して大多数よりも貧しいこと。決して生きられないわけではないけど、その不公平感から不満や恨みが醸成される。世間から距離を取って眺めると、主人公の持つ欲望にはまるで共感しないが。
報道を見ていると恐怖を覚える。社会の表舞台に少しずつ悪がちょっとずつ塊になり始め表に出てきたような感じか。他者へのリスペクトが希薄な生育環境で育ってきた人が、今の世の中で窮地に立たされれば、容易に人のものを盗ることへの垣根が低くなってしまうようにも思う。そして、巧みな甘言が誘う。「あなたがしていることは決して悪くないですよ。なぜならば、大なり小なりみんなしてるのですから」
あまり考えずにその入り口に立ってしまえば最後。追い打ちをかけるように暴力の言葉。「あなたは何も考えずに人の頭を〇〇〇〇で思い切り叩けますか?」と笑いもせずに問いかけられる。常人が聞けば忽ち恐怖がたち現れる。目の前にいる人間の思考がそうであれば、自分は何も考えずにその行為をできる人間に簡単に殺されてしまうに違いない。そこに、恐怖の支配が完成してしまう。いつの間にか、ふつうの世界に悪が幅を利かせ始めている。
村上春樹の暴力描写が頭を過った。確か暴力を書けるようになるまで時間がかかったと言ってたっけ。『ねじまき鳥クロニクル』まで描けなかったらしい。
☆
今日は、鎌倉時代の本を読んでいる。寛喜二年に入った。この時代は火災が頻発し、夏に霜が降りて「ほとんど冬天のごとし」という年だった。夏には幕府の車宿の母屋の上に落雷があり死者が出た。さらに洪水が起こり、川辺の民家が流され多くの人が溺死している。その2日後には大暴風があり稲が軒並み枯れたり流されたりしてしまった。これが寛喜の大飢饉の始まり。世情は不安定になり僧徒が武装化し、武器を持つことを禁止されている。
もちろん当時と比べるべくも無いが、気候変動による貧困の始まりから世情不安が起こり、祈りよりも暴力が誰の目にも見えるようになっていることが共通している。そして、弱い人たちは途方に暮れる。時代が続いていることが唯一の救いか。
こんな時は、宮沢賢治が慰めかな。
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」
という弱さを知って生きる知恵。