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イチローの言葉から寺山修司を思い出した

イチロー氏は、松井氏とのやりとり以外でもデータ野球に警鐘を鳴らした。インタビューでは「(データ野球で)失うものがあるとしたら?」という問いに、「感性ですよ。目で見えてるものしか信じられなくなる。何マイル以上なら何%の割合でヒットが出るってなっていくんですよ。でもそうじゃない技術がある。とにかく見えるものしか評価しないというのは、危険ですね」と語った。

Yahooニュース

このイチロー氏の話を聞いて、頭の片隅に引っかかるものが刺激されるのを感じた。全文読めば、もちろん氏はデータをすべて否定しているわけではなく、データ重視一辺倒に対する警鐘を鳴らしているのだろう。

とはいえ、そこにはAI対人間の構図が垣間見える。「失われるのは感性」という言葉がまた良い。その言葉にはデータを超えたところの人と人との勝負に生きた職人(技術者)の矜持も感じる。世界が人工知能に呑み込まれてしまうことへのレジスタンスなのか。

遡ること55年前、寺山修司もこんな事を言ってた。

とくに「近ごろ、私は電子計算機による『競馬予想』ということに興味を持っている。電子計算機による「競馬予想」は、いわば科学によって偶然を裁く企みである。その予想がひとつ「合理的な法則」に到達し、完全な『的中』予想を果たした時に地上から「競馬の賭博は姿を消さざるを得なくなってしまうだろう。

寺山修司「僕が戦争に行くとき」

電子計算機とはまた懐かしい響きだが、当世でいえばコンピュータの事だ。未来を予測できる社会には、自分を何かに投企するというロマンが失われてしまう。イチローと寺山が同根のことを言ってるのがなんかエモい。

寺山の「科学によって偶然を裁く企み」という言葉も刺さる。

人類が生き延びる事を原動力にして科学は進み、過酷な星の環境にすこしでも適応できるように自然環境に手を加えてきた。今を生きる民は、その恩恵を受け快適な暮らしを約束されている。その一方、科学による人類滅びの時間が加速させられている予感を覚えながら生活していることも実相だ。

修司とイチローによれば

科学によって偶然を裁く企みがこの世界を席巻し始めた。今や人々はいっときも離すことのできない神を手元に握っている。常にその神に目をやり頭を垂れるうちに、ついには感性を削ぎ落とされた人間がそこかしこに溢れかえる。人類の未来はその方向で良いのか?

ということか。

かくいう私もスマホ神に毎日頼っており、どうやら支配されつつあるようだ。取り返しのつかないことになる前に寺山修司展を覗いてみるか。

世田谷文学館で令和7年3月30日まで開催してる。


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