やむやむさんのnoteから考えたこと〜Is it just me, or is it getting crazier out there?〜
やむやむさんの記事を読んだ。はあ〜、同じようなことで思い悩む人がいるのだなあ、という感想。
やむやむさんの引っかかったワードは、映画『JOKER』から。
きっと数多の人が悩んでいる問題。社会、世間、システムといったものと上手く距離が取れず、生きづらさを抱えてしまうという問題にもつながる。
生きていれば、おそらく誰もが一度ならず「私はこのままで良いのか?」という疑問に駆られる。その解決策への道が、社会へ向いたり、自分に向いたりするが、どうにもできないことが多く心が沈んでしまうことも多い。解決策のひとつは、日々の忙しさに紛れて答えのない問いを頭から追いやってしまうこと。それができる人は、それほど苦しんでいるようには見えない。それがシステムに適応するというひとつの答えかもしれない。
やむやむさんのnoteでは、次の記事も引用されてる。
親からの影響というのは、これもまた誰しも逃れ得ないこと。しかしながら、親もまたその親から、そしてまたその親からと連綿と続いていくのだと考えると、実は周りの環境、文化やその時代に作られた規範から多大なる影響を受けているのだと思い至る。
これまた、厄介な問題。自分自身から逃れることができず、ちっぽけな自分ひとりでシステムや巨大なる壁に立ち向かっても何もできないと思い知ったら撃沈するしかない。なにせ神が人類という集団を生き延びさせることに重きを置くのであれば、生贄はいつの時代にでも必要なものになってしまうのだから。一人ひとり分断された個人は哀れにも簡単に生命を召しあげられてしまう。大きな力に怯えるのは、一人ひとりが生き抜く本能だと見る。圧政からも小さな暴力からも逃げられるのであれば逃げておいた方が良い。集団に取り込まれれば、いつ自分が暴力を振るう側に回るのか知れたものではない。人間は弱いことをわきまえようと思う。
そして、卑近な世界での人間関係に躓いた時でさえ、実はその相手さえも救われない人のひとりだと思うと戦意や敵意は喪失する。戦わずに距離を置くことが自分の生き方であれば、臆病者と蔑まれても良しとしよう。
晴れることのない霧の中で生きていくのが人間の一生なのかもしれない。
それでも自分は、飽きもせずに希望のある物語に惹かれては、本を読んだり映画を見たり音楽を聴いたりしている。外に出れば、風に吹かれたり、花を見たり、鳥の声を聴いたり、月を眺めたりしている。そして自分にだけに与えられた生を全うしようとしている。それは、これからも未来が続くことをどこかで信じているからだろう。