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『祈り』 藤原新也写真集

1年半くらい前に、世田谷美術館で展覧会があった際、この写真集が上梓された。

高校時代に森本哲郎の「豊かさへの旅」を読んでからインドに興味が湧き「インド放浪」が先だったか、当時話題になった「東京漂流」が先だったのか忘れてしまったが、そのころ著者の書籍を読み漁った。

高校時代、自分の周りには全く感じることのなかった熱を受け取り、はまったのだと思う。

この場所にはない何かを求めていた時期、「そこのあんた、顔がないですよ」と語りかけられ、大量生産大量消費の画一化社会へ一直線に進む社会に対して「それだけで本当に良いの?」と疑問を投げかけられ、一人ひとりの魂は非力で何もできないけれど、「君にも」手のひらの中に火を灯す自由は与えられている、と諭されたりした。

若い自分に「簡単にベルトコンベアに乗るなよ」と勇気づけてくれた叔父のような存在だった。

それから40年が経過した。

あの時に夢中になったのは、写真と言葉の双方からもたらされる行間にあるsomethingだったことに気付く。

強い言葉の中に潜んでいた諦観、時にはコピーと真逆に感じられる写真に現れる幻。受け手の体験に呼応して現れる重層的なメッセージが隠れていた。

改めて写真集を手に取って眺めていると、その時の熱狂は間違っていないような気がした。

希望と諦観の間にこそ祈りは宿る。

自分の根っこになった考えの芽をその時に植え付けられたのかも知れない。

祈り、今ならば少しは理解できる。

旅で培ったもう一つの眼を武器にして世界を眺めた彼のスタイル。カメラに写った現実の世界を言葉とともに送り出していた。

見る。撮る。触れる。

それは祈り

東日本大震災の前に図らずも認めた書は「死ぬな、生きろ」だった。

熱量は、変わっていなかった。

人生はたしかに虚実。誰の視点で見るかによって変化してしまうほど頼りない。そして、いつしか誰の人生も終わってしまい、胡蝶の夢のように本人には虚実がわからぬまま消えていってしまう。

昨日は孫と遊びながら、未来への希望を感じた。今日は国立ハンセン病資料館を訪れて、ハンセン病に罹患した人たちから、人はなんのために生きるのか?との問いを投げかけられた。

帰り道、清瀬の商店街に君たちはどう生きるかの主題歌、米津玄師の地球儀が流れていた。メロディーがシンクロして心地よかった。













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