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直感で生き抜いてきた80代女子の話

一人暮らしの母が、危なっかしくなってきた。前兆は、今まで口にしたことのない「めんどくさい」というワードが頻繁に聞かれるようになった事。昨年、とうとう仕事をやめてしまい(80歳超えてたのであっぱれ!)、転居のせいで近所に友だちも少ないのでお喋りの機会が激減しているのもひとつの要因だろう。週に一度は会いに行って小一時間ばかり話すようにしている。

そんな母の姿に接していると20年後の自分を見ているようでちょっぴり切なくなる。

おそらく、母が一番安心できるのは自分の兄弟たちと会話している時だろう。終活の話に及んだ時に、「葬式になればみんなすぐに駆けつけてくるよ」とすかさず言っていた。兄弟たちも同じように歳を重ねていて、無理が効かないことは頭にないらしかった。

母は、5人兄弟の長女。兄弟の中では、いつも溌剌としていて、即断できる過去は振り返らない直感型のリーダーだったらしい。

幼い頃からの刷り込みもあり、みんな一目置いている。兄弟の中の立ち位置が彼女の生き方の原型なので、みんなのリーダーとして堂々と振る舞うことが好きなようだ。兄弟と話すときは背筋が伸びている。今でも母の中では、正しい命令を発令し続けて、みんなを守っているという気持ちが強いのだろう。

こんな事があった。3年くらい前に弟(私のおじさん)が体調を崩し一気に寝たきり状態になってしまった。義妹から要請があり、母は一目散に手伝いに行った。頑張ってね、と思っていたら急に携帯電話が震えた。「弟が譫言を言って、様子がおかしいのよ」という。聞いてみると回復が遅いことで諦めてしまい、水分もあまり摂っていないのに、そのままにしているらしい。どうやら、せん妄状態が現れてしまっているようだった。すぐに主治医に連絡するように伝え、入院させてもらえたので事なきを得た

改めて集団の怖さを知った出来事だった。電話をかける前には、兄弟で葬式の話をしていたというのを聞いた時にはちょっと背筋が寒くなった。もちろん母を含めて誰にも悪意はないが、知らないことが多ければ、みすみす生命を落とすこともあるのだという例。その叔父は、退院後一月はベッド上の生活を続けていたが、今は車を運転できるほどに回復している。話が脱線した。

そうそう、母の話。母は、生来の気質から、子どもたちにも踏み込みすぎた命令を出して煙たがられることもあった。直感型なので納得できる説明がないこともある。不確かな情報を頼りに、思い込みで自分が正しいと思っていることもあった。幼い頃から兄は忸怩たる思いを抱えていたと思うが、長兄のため家のために頑張ろうという気持ちはあったと思う。結局、兄とは関係が拗れ、とうとう疎遠になってしまった。お互いの言い分があったろうが、未だに距離を置かれている。

私は二男の利があったのだろう、無自覚ながら兄の影に隠れて直接の被害を免れていた事が事が多かったので普通の親子関係が続いている。

兄に「おまえは、いいな」と良く言われていたことを今更ながら思い出す。その当時は、なんのことか分からなかったけれど。

うっすら思い出すのは、小学生の頃、兄が付き合う友達に口を出され、涙目で抗議をしていたことだ。自分がその立場なら猛抗議するか、黙って口を利かなくなっていたかもしれない。今となっては兄を慰めるでこともできたのにと思う。その時は、観察するのが精一杯だった。兄は、おそらく自分の味方が欲しかったろう。

母もそろそろとバワーダウンしており、私が一人で見守りをしているのだから、兄にはそろそろ許してほしいものだとも思う。

母の立場からものを見れば、自分に与えられた力や見聞きしてきた経験を駆使して精一杯努力して来たのだろうと感じる。長女の宿命として、自分が生き抜いてきた知恵を皆に伝えていがなければならないという一心が原動力だったのかな。その気持ちは尊重したい。

母は、自分の生まれ育った一族に飛び抜けた才能があるわけではないと自覚していたらしい。うちは中間のちょっと上だといつも言っていた。父親のことが自慢で「父ちゃんが復員後、昼夜を問わず働いて駅前で商売を始めたからなんの苦労もなかった」と良く言っていた。祖父は、衝動的なところがある母を見守りながらも自由にさせていたのだと思う。もしかしたら、父の言う事を聞かない女子だった可能性もあるが…。

「中の上」発言は、私にとっては恥ずかしくてどこかに隠れたい気持ちになる話だが、母の誇りであると思えば受け流せる。

「S県の田舎町の中のちょっと上」という気分、そうあくまで気分のことであるが、その誇りが生涯を通じて彼女を支えてきたのだと思う。

大きく言えば、1980年代頃、中流幻想が日本を覆っていたことの裏付けのひとつかなと察する。貴重な市井の民の証言か。何にせよ、それで気持ちが満たされて安定するのであれば、なんら否定することはない。政治のトリックワードであったにせよ。

昭和の時代、中流から下流の生き抜くための心得は、勤勉であることと忠誠心を持つことであった。テレビドラマであれば、悪役に殺されてしまうか、風見鶏になるかの役回りであるが、母の生きた時代にあっては大きな難をすり抜けて生きるための処世術でもあったのだ。

家系的には勤勉遺伝子が受け継がれているようであり、働き者が多いことを感じる。親戚たちはそれぞれサラリーマン勤めをしながら親から切り分けられた土地で自転車置き場やコンビニエンスストアなどの小さい商いをしている。母も結婚して生花店を切り盛りする傍ら、生け花の師範になった。

母ととりとめもない話しをしているうちに、自分が副業をして来たのも、その母の姿に倣っていたことに思い当たった。商人の子どもだから、母の子どもだからその行動原理はいつの間にか刷り込まれていたのだった。

他の親戚たちと母の違うところは、自分の直感に任せて自由に生きてきたことに尽きる。他の親戚たちは地元に根付いて暮らしてきたが、母は大人しくしていることが性に合わず、定時制高校に通い昼間は、隣町の工場に働きに行ったりしていた。高校の頃は演劇部で活動したが、演劇部の指導をしていたのが父だった。そこで仲を深め、卒業の数年後に結婚している。

生け花の先生になったのは、父が生花店を始めたからであった。店舗に稽古場を増設し、生徒さんにお稽古をつけていた。自分で稼いだお金は、子どもの教育のための資金やへそくりにしていた。楽しみは、隣にあった街で一番大きい洋品店から頻繁に服を購入することだった。和服も好きで、着物姿で巣鴨にあった生け花の会館に行くこともしばしばだった。その当時が一番人生を謳歌していた時期かもしれない。

物事には開始するタイミングがある。そろそろ母の聞き書きなどを始めてみるか、という気持ちになった。彼女の人生のアウトラインをなぞれるくらいの話は聞いているので、肉付けできるような話を聞けたら冊子にしてみよう。

親族に読んでもらうレベルのものが完成すれば良し。

これも自分の役割かもしれない、と少しばかり思った母との1日だった。

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