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一遍上人の鎌倉・藤沢を巡る旅
33歳で、全財産を捨て一族とも別れて出家し、全国の遊行に出た一遍上人の鎌倉・藤沢を巡る旅をしてみた。
およそ730年前の話。一遍上人は、もともと武士で妻帯していたのにもかかわらず、一念発起して財産や家族を捨て再度の出家を果たした。そして、すぐに九州・四国・山陽・近畿・奥州・関東の各地を巡る遊行の旅に出た。その当時の仏教の学び場と言えば比叡山。一遍上人以外の宗祖は皆、比叡山で学んでいるので、一風変わった経歴の持ち主らしい。そして、時宗と言えば、あの踊り念仏(南無阿弥陀仏を唱えながら鉦や太鼓などに合わせて踊ること)が有名だ。遊行中に長野の佐久で始めたらしいが、それが評判を呼び、人気を博し一躍有名になったのだ。
音楽や踊りの持つパワーや人を惹きつける魅力は普遍的だ。偶然なのか必然なのか、宗教にそのパフォーマンスを取り入れたことから時宗の裾野は拡大していったようでもある。
時宗の総本山は、藤沢市にあるが、その昔(30数年前)、御本堂で上々颱風のコンサートが開かれたことがあり、わたくしも聴きにいった。その日がわたくしと遊行寺との初めての縁だったと思う。今は休止中の上々颱風はジブリの「平成ぽんぽこ狸合戦」の主題歌やCMソングなども手掛けていてそれなりに知名度があるが、それほどは売れていない時代だったと思う。
そのコンサートの掴みで、ボーカルの白崎映美が、「みんな、両手を挙げてみて」と観客に声をかけた。一斉に手がにょきにょきと生えるさまを見て、何を言うのかと思ったら「神々しいわ、千手観音さまが現れなさった」とやったもんだから、場所が場所だけに大ウケした。いま思えば時宗は、音楽や踊りやと相性が良く柔軟に受けいれる素地が息づいているのだと思った次第。
さて、その一遍上人と鎌倉の縁は、1282年(弘安5年)の春に常陸・武蔵を経て巨福呂坂から鎌倉入りを目指したことに遡る。
当時の鎌倉は北条氏の後ろ盾もあって禅宗の寺院が隆盛期であり、各宗の高僧たちは、こぞって鎌倉での布教をこころみていた。一方、仕事と食料を求める浮浪の人々も数多く集まっており、鎌倉は、ありとあらゆる階層の人々が、せまい市中にひしめいていた状況だった。
一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとしたのだが、巨福呂坂で警護の武士に行く手を遮ぎられた。当時の幕府は、浮浪者の取り締まりを厳しくしていたため、乞食のような恰好をした時宗僧尼の一団は危険と認識されたわけだ。
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遊行寺の宝物館には実際に一遍のきていたものが展示されていたこともあったとのことだが、とても粗末なものだったようだ。一遍の像や絵を見ると先日見て回った日蓮上人のような華美なスター性のある魅力とは、また違ったものがある。
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一遍上人は、「踊りながら『南無阿弥陀仏』と唱えれば誰でも救われるよと教え、同じお経なんだから『南無妙法蓮華経』でもいいよ、なんて言ってたらしい。
そのこだわりの薄さと受け入れる度量の広さに好感持つなぁ、と思う。
数値目標を掲げていたのも興味深い。「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」の念仏札なるものを配ってたようだ。勝手なイメージとして、われ先に衆生が手を出してお札をもらおうとしていたような絵が浮かんでくる。
まず六十万人。そして次の六十万人、そして一切の衆生が救われることを願ったらしい。当時の六十万人なんて途方もない数字だと思うけれど。
そう思うと、格好はつつましやか(みすぼらしい)だけれど、信者を集める企画力やターゲットの絞り方、訴え方については時代を読む力があったのではないかなんて思った。
こんなエピソードもある。
一遍上人の法難とは鎌倉に入ろうとして排除された弘安五年(1282年)三月一日の事件の事を指します。(一遍聖絵)
この日はちょうど執権北条時宗が山ノ内の邸へ行く事になっていて、その為に通り道である小袋坂(現在の巨福坂)では、みずぼらしい姿のもの達が追い出されていました。
この時代、鎌倉幕府は『夜討・強盗・山賊・海賊』を企てるものを“悪党”と名付けると共に道路を占拠する乞食などの定まった住所を持たない者も一緒くたにして好ましからざる者としていました。
そこへ何も知らない一遍上人と時衆達が小袋坂の木戸(関所)を通り抜けようとした為、警護の武士に行く手を阻まれて一遍上人が杖で二回ほど叩かれ、一遍上人の一行(時衆)が追い返されたのです。
実際時衆は一遍聖絵に書かれた姿を見るとわかりますが、大変粗末なぼろぼろの衣を纏い、みずぼらしい姿であったので先に上げた好ましからざる者として見られ、追い出されたのだと思われます。
この時どれほどみずぼらしい姿であったかを連想させる着物が遊行寺宝物館に残されています。
小袋坂の木戸があったのは現在の北鎌倉駅前のあたりだと言われています。もちろん今の道路等を見てもとても納得は行かないでしょうがかつての小袋坂は陸軍が道路を通す際に切り通しを爆破したりして標高を下げたり拡幅してしまいましたし、戦後も道路の拡幅工事が行われましたので知らない人が多い現在では想像するのも大変です。しかし、昭和30年代の古い北鎌倉の写真を見ますと北鎌倉駅前から鎌倉方面は道幅が狭く、巨木が覆いかぶさるような緑のトンネルであった事が伺えますし、もっと古い写真では確かに駅前に木戸が写っているものもあります。
一遍上人は鎌倉入りして布教する事が大切と考えていたようでかなり抵抗したようですが警護の武士から、鎌倉の外は御制の限りにあらずと諭され、鎌倉の境のすぐ外側に野宿し、翌日片瀬へと移動して行ったのです。
今回は行けなかったが、北鎌倉の光照寺にも行ってみたい。一遍上人の教えから誰でも断ることなく受け入れていたため、隠れキリシタンも匿っていたお寺らしい。厳しい時代にこそ宗教の持つ役割や重みが増すのではないかと思う。
つづく