見出し画像

認知症の母:デジタル遠隔介護 本当に失われていく『母らしさ』

2022年1月、介護がスタートしたころ、私は楽観的だった。

母が明るく元気な昔の母にだったからだ。
母は、よく笑い、よく行動して、人を惹きつけて輪の中心になるような人柄に。

いじわるばあさん期間は20年

母は60歳を過ぎた頃から、
・日時を間違える。約束が難しい
・会話が急に違う話題に飛ぶ
などの異変が起こり始めた。
気づいたのは私だけで、家族親族の誰に話しても「そう?そんなことないと思うけど」と不思議がられた。2年ほどで周知されたが。

それ以降、10年ほどかけてゆっくりと
・被害妄想
・他者非難
・人格変貌、外見の変貌
・支払いを渋る
など変化していった。

いつ会っても不機嫌で、文句タラタラ。
いつも機嫌をとることばかり考え、会って3時間機嫌が良くても、次に会う際、「この前、あなたがこう言った!」と非難めいた口調から始まる。小さいことを大きく繰り返し悪口として話す。決まった親族の、亡くなった人の悪口まで聞かされる。毎回うんざりだった。よく旅行へ出掛けて仲の良かった叔母は、会うのを恐ろしがって疎遠になった。
このまま『スーパーいじわるばあさん』として死んでしまうのだろうかと悲観してそして覚悟していた。

ところが2016年、緊急手術で76歳でペースメーカーを入れると驚いたことに認知障害は全くなくなり、60歳以前のように、化粧を始め、おしゃれが戻り、金払いも良くなり、よく笑う昔の母に戻った。

認知症が治るのかとすごくびっくりした。
そして嬉しかった。

が、それも2年ほどで悪化し始め、かかりつけ医から「認知症用の薬」を処方されたようだった。自主的に運転免許証も返納した。
2021年の夏頃に一緒に食事や外出をするようになった頃、驚くほど母はよく笑い、元気よく、快活になっていた。笑いながら、「薬、忘れちゃうから半年飲んでないのよ〜」と言って私を驚かせた。

2021年10月、母は81歳。もう一人暮らしはダメだとSOS発信のつもりだったのか自ら介護保険利用申請を済ませ、その1ヶ月後には自分で申請をしたこと自体を忘れていた。

2022年、82歳、明るい認知症


電話で、「これから行きますよ〜」と言うと
「あら、嬉しいわ。待ってます」と答える明るい母。
認知障害のあった20年間の母は、そんなことは言わない人だった。

また、「ありがとう」「ありがとう、ありがとう」
「また来てね」
とよくいうようになった。

私が帰ると、マンションのベランダに出て、私の姿が見えなくなるまで手を振っていた。懐かしい。母は常にそういう人だったのに、20年ぶりに見て嬉しかった。

犬を高々と持ち上げてまたね〜という母


でもその『ベランダから見えなくなるまで手を振る』のは、その後徐々になくなり、半年ほどで全くしなくなった。振り返って見上げても母はいない。
今度こそ本当に2度と回復したりしないのだと感じるようになった。

母にはできないことが2週間に一つは起きた。
できない頻度が上がり、いずれ全くできなくなる。

母はどんどん若返っていった。

一度は帰ってきた「昔の母」は、今度こそ戻ってこない。

認知症で子供帰りするとは、
人生で獲得した感性や習慣を忘れること



母の部屋には鉢植えと切り花が常にあった。 知る限り欠かしたことはない。 いじわるばあさん期間でも母に会う時は花を持って行った。 花を見れば顔がほころぶ。

2022年1月に介護保険利用がスタートした当初、母の変化は小さく見えた。
母の家を訪問するときには、必ず小さい切り花とお菓子を持って行った。
いつも通り「あら、嬉しい」と喜び、二人で花びんはあれがいいかこれがいいかとバランスを見ながら切り戻して綺麗に生けた。
今までの当たり前の習慣だった。

花瓶を選び茎を切り戻す母


でも、徐々に、母は生けた花を腐らせるようになり、枯れても気にしなくなった。
鉢植えはまだベランダに置いてたまに世話する期間が残ったが、半年ほどで花に関心を示さなくなった。

化粧
時々思い出したように「眉墨がないのよ〜」と言うこともあったが、徐々に化粧をしなくなり化粧という行為そのものを忘れていった。
以前は綺麗に栗色に髪を染めて必ずカールさせていたヘアスタイルも、美容院のすすめのままにショートヘアになり黄色や紫色に染められて帰ってくるようになった。
その変化には、私はやるせ無い気持ちになったものだ。
おしゃれは母らしさの根源であり最も大事なことように感じていたからだと思う。
母には己に対する美の意識が強く存在した。

ゆっくり失われていく母のルール
母には譲れないルールがたくさんあった。
母らしいこだわりと好み、労を惜しまない直向きさ、生活と自分に対する潔癖さがあった。そのルールに従って子育てをして倫理観を説いた母が、目の前でそのルールを忘れて行く。

それでも介護スタッフにも機嫌よく接し、私が考える生活の対策に納得して受け入れてくれた。まだ母には母らしい面があり、快活でよく笑い、聡明さを見つけることができる。2024年6月。長い別れはまだ続いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?