仕様発注方式で失敗・破綻し、性能発注方式で復活・成功した新国立競技場整備事業― プロジェクトの全体最適化 成功と失敗の事例研究(2) ―
1 2015年7月17日、新国立競技場整備計画が白紙撤回
2012年に実施した国際デザインコンクールを起点とする新国立競技場整備計画は、「設計・施工の分離の原則」に則った仕様発注方式による整備に向けて、2年半もの設計委託期間と60億円余りの設計委託費を費やした挙句に、工事費試算額の高騰が引き金となり、2015年7月17日に安倍首相により計画全体が白紙撤回され破綻しました。
この破綻の主因は、三つ巴のトレードオフ関係(彼方を立てれば此方が立たなくなるといった相反関係)にあるスペック・工事費・工期について、全体最適化に失敗したことに尽きます。ここで用いられた仕様発注方式は、設計と施工それぞれの段階において部分最適化を求めているのと同じであるため、全体最適化には本質的に向いていないのです。
2 白紙撤回された新国立競技場整備計画、工事費試算額の推移
2012年秋に開催された国際デザインコンクールでは、英国の建築デザイナー事務所による「斬新なデザイン」の作品が選定されました。この時点でのことですが、新国立競技場整備の発注者である独立行政法人日本スポーツ振興センターは、工事費として約1300億円(工期は42ヶ月)を予定していたのですが、英国の建築デザイナー事務所の工事費見積額は約900億円でした。
ところが、フレームワーク設計受託者が2013年7月に試算した工事費は、約3500億円に上るものでした。この試算額は、「斬新なデザイン」をそのまま用いたフルスペックの場合、つまり、開閉式屋根を備えた全天候型で音楽コンサートも開催できる多目的施設とした場合の試算額です。
そこで、発注者は工事費を抑えるため、スペック(開閉式屋根を備えた全天候型で音楽コンサートも開催できる多目的施設)はそのままとして、デザインを変更し規模を縮小したのです。その結果、フレームワーク設計受託者が2013年11月に再度試算した工事費は、約1800億円にまで減少しました。
しかし、基本設計受託者が2014年5月に試算した工事費は、約2500億円に増大してしまいました。そこで、発注者が工事費の抑制を強く主張した結果、今度は実施設計受託者が2014年11月に試算した工事費は、約2100億円に若干減少しました。ところが、この頃既に発注者は、実施設計受託者による実施設計内容と設計価格(約2100億円に抑制させた価格)に基づく施工入札の不調を危惧するようになっていたのです。つまり、2014年秋の時点で、仕様発注方式(設計と施工を単純に分離発注する方式)の大きなデメリットが露呈しつつあったと言えます。
そこで、2014年10月のことですが、発注者はECI方式を採用することにしたのです。ECI(Early Contractor Involvement)方式とは、施工業者が持つ施工上のノウハウを実施設計に反映させるために、発注者が施工予定業者を予め選定して契約を結ぶことにより、発注者が別途選定した実施設計受託業者に施工予定業者を技術協力させる方式です。それゆえ、ECI方式は、設計と施工の分離発注方式、つまり、仕様発注方式の一類型であると言えます。
発注者は、ECI方式による施工対象をスタンド工区と屋根工区に分割して、それぞれの施工予定業者を公募型プロポーザル方式で募り、スタンド工区はT建設、屋根工区はT工務店を選定しました。そして、2014年12月に、発注者は、施工予定業者との技術協力業務委託契約を、T建設及びT工務店とそれぞれ締結したのです。ここで、ECI方式による施工対象をスタンド工区と屋根工区に分割したのは、それぞれを得意とする施工予定業者を選定することにより、工事費と工期の縮減を図ろうとしたためでした。
ところが、ECI方式で選定した施工予定業者2社が2015年1月に試算した工事費(スタンド工区と屋根工区の合計工事費)は、何と約3100億円であり、しかも、工期は66ヶ月を要する結果となりました。この試算結果に驚いた発注者は、工事費と工期をなんとしても縮減するため、開閉式屋根等の設置は、オリンピック・パラリンピック終了後に先送りすることとしました。ちなみに、このような先送りでは足場を組むなどの仮設工事が再度必要となるので、全体の工事費の更なる膨張は避けられないところとなります。
しかし、施工予定業者2社が2015年6月に再度試算した工事費(開閉式屋根等の設置を先送りしたスタンド工区と屋根工区の合計工事費)は、約2500億円にしか減額することができず、工期も44ヶ月を要する結果となりました。このような結果を受けて、2015年7月17日に、新国立競技場整備計画全体が安倍首相により白紙撤回され破綻したのです。
3 新国立競技場整備計画が破綻した原因
(1) 仕様発注方式の大きなデメリットが露呈
仕様発注方式の主眼は、設計発注段階で競争原理を働かせて、施工発注段階でも競争原理を働かせるところにあります。つまり、設計と施工それぞれの段階ごとの部分最適化です。
ここで、標準化された工法や熟して枯れた工法が利用できる場合(つまり、誰がやっても同じ結果が出せる場合)には、設計発注段階と施工発注段階のそれぞれにおいて、価格面の競争原理を働かせることは可能です。
しかし、標準化されていない最先端技術や施工者による施工上の創意工夫が必要な場合には、施工者が有するノウハウを設計に反映させる(つまり、設計時に、価格面に加えて技術面の競争原理も働かせる)必要があります。このような点こそ、新国立競技場整備計画の終盤において、仕様発注方式(設計と施工を単純に分離発注する方式)の大きなデメリット(誰がやっても同じ結果が出せる場合にしか使えない方式であること)が露呈した際に、発注者が急遽、ECI方式を用いることにした最大の理由です。
(2) スペック・工事費・工期の全体最適化に失敗
新国立競技場整備計画では、スペック・工事費・工期は、三つ巴のトレードオフ関係、つまり、彼方を立てれば此方が立たなくなるといった相反関係にあります。このため、工事費と工期を許容範囲内に収めるには、スペックの抜本的な見直しが必要となります。このことから、このような整備計画を成功させるには、計画全体を司るプロジェクトマネジメントのトップダウンにより、スペック・工事費・工期の全体最適化を図ることが絶対に欠かせないところとなるのです。
しかし、実際には、発注者はスペックの抜本的な見直しを行うことなく、設計方法の見直しによる工事費の縮減だけを2年以上にわたって追求し続けました。このため、工期の余裕が失われていった結果、トレードオフ関係にある工事費が増大していったのです。つまり、工事費の部分最適化だけを追求した結果、整備計画全体が破綻してしまったと言えます。
このような破綻は、「整備計画全体を司るプロジェクトマネジメント」の欠如に由来します。驚くべきことに、発注者側には、整備計画の全体を実質的に司るプロジェクトマネージャがどこにもいなかったのです。巨大プロジェクトを誰一人として責任を持ってマネジメントしようとはせず、巨大プロジェクトを「組織対応」で運営しようとする、悪しき無責任体質がここでも露呈してしまいました。
これでは、オリンピックとは何の関係もない音楽コンサートを雨天でも開催可能とする過大なスペックを、オリンピックの前年のラグビーワールドカップに間に合わせるべく短期間の工期で、しかも、工事費が過大とならないようにまとめ上げる(つまり、全体最適化する)ことなど、そもそも不可能です。実際に破綻するまで、このことに誰も気付くことができなかったのは、新国立競技場整備計画という巨大プロジェクトを性能発注方式ではなく、仕様発注方式で運営したためです。なぜならば、仕様発注方式の本質はボトムアップによる部分最適化であり、性能発注方式の本質はトップダウンによる全体最適化であるからです。
(3) 切札としたECI方式でも、工区分割による部分最適化を追求
新国立競技場整備計画の終盤において、実施設計受託者による実施設計内容及び設計価格(約2100億円)に基づく施工入札の不調が危惧されたため、発注者は急遽、ECI(Early Contractor Involvement)方式を採用することにしたのですが、その一番の目的は、ECI方式で施工業者が持つ施工上のノウハウを実施設計に反映させることにより、工事費や工期の縮減を図ろうとするところにありました。
ところが、実際にECI方式を採用した結果は、工事費や工期の縮減どころか、真逆の結果(工事費試算額は約3100億円に、工期は66ヶ月に、いずれも大幅に増大)を招いてしまっています。
発注者は、ECI方式による施工対象をスタンド工区と屋根工区に分割し、公募型プロポーザル方式により各工区の施工予定業者を選定しました。ここで、工区を分割した目的ですが、分割によりそれぞれの工区を得意とする施工業者を選定できるとして、工事費と工期の縮減を図ろうとしたところにあります。
しかし、これはまさに、ボトムアップによる部分最適化の捉え方そのものでした。その結果として、実際には工区を分割したことにより、施工上のリスク要因が増大してしまったのです。つまり、スタンド工区と屋根工区は、互いに他の工区の影響を受けない「それぞれが独立した工区」ではなく、スタンド工区の作業の遅れが屋根工区の作業の遅れに繋がるなど、「互いに依存する関係にある工区」だったのです。このような工区ごとの部分最適化の積み上げでは、全体最適化は達成できないのです。また、工区間の調整は発注者の仕事となるなど、工期全体の短縮には明らかにマイナスでした。このことから、ECI方式を用いる場合でも、トップダウンによる全体最適化の視点が欠かせないと言えます。
4 性能発注方式で復活した新国立競技場整備事業
(1) 復活の鍵は、改正品確法に規定された性能発注方式
2005年に制定された品確法(公共工事の品質確保の促進に関する法律)は、2014年6月の改正により、「多様な入札及び契約の方法」が追加され、設計と施工を一括して発注する方式、つまり、性能発注方式が法律で裏付けられました。具体的には、この改正で品確法の第18条に新たに規定された「技術提案の審査及び価格等の交渉による方式」は、性能発注方式の一類型です。
さて、2015年7月17日に白紙撤回され破綻した新国立競技場整備計画は、その1年ほど前に改正品確法に規定された「技術提案の審査及び価格等の交渉による方式」をそのまま用いることにより、白紙撤回後の1ヶ月余りで見事に復活しました。改正品確法で性能発注方式が法的に裏付けられていたことが、我が国にとって幸いであったと言えます。
(2) 復活に向けた動きは極めて迅速
新国立競技場整備計画が白紙撤回された翌月の2015年8月28日に、「新国立競技場整備計画再検討のための関係閣僚会議(第4回)」が開催され、この場で「新国立競技場の整備計画」(A4版で全7頁)が決定されました。
これを受けて、2015年9月1日に「新国立競技場整備事業 業務要求水準書」(A4版で全56頁)を公開して、受注希望業者の公募手続きを開始しています。この「業務要求水準書」は、外部委託せずに発注者側が短期間(約1ヶ月)で作成したものでした。また、この「業務要求水準書」では、受注者に実現を求める「機能と性能の要求要件」について、受注者に委ねるべき設計には立ち入ることなく、受注者が設計と施工を行う上で必要十分となるよう、分かりやすく記載されていました。さらに、この「業務要求水準書」では、受注者側の総括代理人が、新国立競技場整備事業全体のプロジェクトマネジメントを統括実施すること、つまり、プロジェクトマネージャとしてトップダウンで事業運営に当たることを求めていました。このようなところに、性能発注方式の大きなメリットが具現していたと言えます。
そして、2015年9月1日に開始された前記の公募には、二つのJV(共同企業体)が応募し、各JVから提出された技術提案の審査を経て、2015年暮までに受注業者が選定されたのです。
(3) 2019年11月30日、新国立競技場が滞り無く完成
受注業者を選定したその翌年(2016年)には実施設計を開始し、さらにその翌年(2017年)には施工を開始することができました。そして、2019年11月30日に、当初予定した工期(2019年11月末)と工事費(約1500億円)で、新国立競技場は何の滞りも無く完成したのです。受注者に実現を求める「機能と性能の要求要件」を、受注者に委ねるべき設計には立ち入ることなく、受注者が設計と施工を行う上で必要十分となるよう、分かりやすく記載した「理想的な業務要求水準書」を作成した上で、デザイン・設計・施工を一括して実施させる性能発注方式を用いたからこそ、スペック・工事費・工期の全体最適化に成功した結果であると言えます。
(4) 新国立競技場整備事業成功の歴史的意義
我が国では、これまで長年にわたって、仕様発注方式による失敗を、仕様発注方式の更なる工夫や改善により克服しようとしてきましたが、克服できた事例はあまり見られないところです。そのような中で、新国立競技場整備事業は、仕様発注方式による失敗を、性能発注方式に切り替えることにより見事に克服できた初のケースと言えます。そこで、新国立競技場整備事業を振り返ってみれば、仕様発注方式のデメリットと性能発注方式のメリットが歴然としてきます。それゆえ、新国立競技場が完成した2019年11月30日を契機として、これからの公設公営の公共事業は、仕様発注方式から性能発注方式へのパラダイムシフトが望まれるところです。
《 記事の出典 》 この記事は、書籍【「性能発注方式」発注書制作活用実践法】の第2章からの抜粋を再構成したものです。ちなみに、【「性能発注方式」発注書制作活用実践法】は、性能発注方式について真正面から捉えた我が国唯一の書籍です。
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