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読者の視線を誘導する方法|ビギナー認知詩学(2)

※このシリーズは、一介の文学理論オタク(@初学者)が、ゆるく楽しく認知詩学について綴った記事である。内容には諸説あるため、正しい知識が必要な方は、記事末尾の参考文献にて各自参照・補足をされたい。

前回「図と地」からの続き。
今回は、詩人や歌人、小説家などの「作者」が、文学作品において「図と地」の効果をどう利用して表現の工夫を凝らしているかについて、実例(和歌)を見ながら明らかにしていく。


主語=「図」

前回のおさらい。「図(=目立つもの)」の特徴。

①それ自体で自己完結独立している。
輪郭がはっきりしている。
③周囲が静止している中、単独で動く
④周囲より時間的・空間的に先行する。
⑤集団からこぼれ落ちたり、浮かび上がったりして
 分離した結果生まれたもの。
⑥周囲より解像度が高く、焦点が合っていて、
 明るく、魅力的なもの。
⑦集団の頂点/最前/表面にあり、大きなもの。

以上をごく簡潔にまとめると、「独立」「明確」「前面」「動く」「大きい」といった要素が、「図」を作り出す要件であるとみられる。
前回はアイドルグループのセンターにあてはめて説明したが、これを文学作品に適用する場合、最も分かりやすい「図」の例は、文の主語である。主語は多く文の先頭に来て、前面に意識され、かつ動く(動詞と直接関わる)ことが多いためである。

a 太郎が花子を蹴った。

確かに、太郎が目立つ。ただし、正直この例だと、主語である太郎が「図」となっている、と説明されても、あまりピンと来ない感じもする。ところが、

b 花子が太郎に蹴られた。【受身形】

とすると、動作主の太郎ではなく、受身形の主語である花子にスポットライトが当たっている様子がよく分かる。同様に、

c 警察が犯人を捕まえた。【他動詞】
d 犯人が捕まった。【自動詞】

の両者を比較すると、主語が「図」として認識されることが納得しやすい。すなわち、通常の文における主語全てが「図」であるというよりは、受身形や自動詞・他動詞などを用いることで主語に操作を加えている表現に関して、特に注意する必要があるというわけ。

袖ひちてむすびし水

以上の点をふまえ、次の和歌を見てみたい。

袖ひちてむすびし水の氷れるを春立つ今日の風や解くらむ

『古今和歌集』に収録されている、紀貫之の歌である。大意は「凍っている水を立春の風が今頃解かしているだろうか」となるが、その初句は「袖ひちて」とある。「ひちて」は「濡れて」の意、「濡らして」ではないことに注意。現代語で考えて、

e 袖が濡れてすくった水【自動詞「濡れる」】
f 袖を濡らしてすくった水【他動詞「濡らす」】

の二つを比較するなら、fの方が自然で、eはちょっと気持ち悪い。でも、そこには操作があるからで、両者の主語について考えを巡らす余地がある。eは当然明示されているように、「袖」が主語として前景化される一方、fは明示されていないが、「私が(袖を濡らしてすくった)」が隠されている。eすなわち「袖ひちてむすびし水」の和歌は、「袖」の主語を明示するために、あえて自動詞「ひちて(濡れて)」を用いている。
その後の「図」を概説すると、以下のようになる。

袖ひちてむすびし(水) →【「ひち」の主語】
 ※「むすびし」の主語として動作主の面影が表れる
  が、それも一瞬で、明示も強調もされない。
水の氷れるを →【「氷れる」の主語】
春立つ今日の(風) →春・風【「立つ」の主語】
風や解くらむ →【「解く」の主語】

『古今和歌集』巻一〈春上〉紀貫之 2

たとえば映画のワンシーンのように、スクリーン上に水に浸った袖が大写しになったのち、掌にすくった水とたゆたう水面がフォーカスされたかと思うと、それが凍結し、次に春風がふわりと訪れて、氷で閉ざされた水面をほどく、その一連の映像が一首の表現世界である。そこでは人間の表情や目立つ動作はノイズになるだけだから、それらをあえて見せないように、作者はうまく読者の視線を誘導するのである。

桜花散りぬる風

もういっちょ、同じく『古今和歌集』の紀貫之の歌。

桜花散りぬる風の名残には水無き空に波ぞ立ちける

『古今和歌集』巻二〈春下〉紀貫之 89

これも、「桜花散りぬる風」という続きが、現代語訳すると「桜花が散ってしまった風」となり、厳密にいうと気持ちが悪い。以下のように、本来であればhのように表現すべきところである。

g 桜花が散ってしまった風【自動詞「散る」】
h 桜花を散らしてしまった風【他動詞「散らす」】

この違和感もまた、「図と地」の理論を援用すれば説明可能である。「桜花」が主語として示されるgは、「風が(=主語)桜花を散らしてしまった」という文の連体修飾+体言形であるhと比べ、「桜花」にスポットライトが強く当たることになる。しかも「図」としての桜はすぐに散ってしまうので、残像だけが強く留まり、その後それが、空に立つはずのない白波へと変化する。まるで半透明のレイヤーが重ねられるように、幻想的な映像が描写されるのであるが、もちろんそれは「図」としての「桜花」が一首を纏め上げる効果を発揮しているからに違いない。

まとめ

以上、貫之の二首の和歌を例に、「図と地」の理論を利用しての表現分析を試みた。歌の良さを完璧に説明できたわけではないが、少なくとも、作者が主語や自動詞/他動詞の使い分けに気を配っていることは明らかにできたと思う。参考文献として挙げた ①②の本には、英詩人テッド・ヒューズの作品を例に、「図と地」理論による分析が行われている。原著(参考文献①)は英語だし、訳本(参考文献②)も手に入りにくいのが難点だが、興味を持たれた方はぜひそちらも読んでみていただきたい。(ちなみに私は原著はamazonで購入し、訳書は図書館の広域利用で借りて読みました。)

おまけ∶『思想犯』の凄まじい歌詞

※最後に演習問題として。
以下の2節はヨルシカ『思想犯』の歌詞の一部である。これらを「図と地」理論で分析すると、面白いかもしれない。

さよならが口を滑る(サビ1番の歌詞)
j また明日 口が滑る(ラストサビの歌詞)

ヨルシカ『思想犯』の歌詞

主語(前景)が変わってる。「口を滑る」は違和感ある(普通は「口が滑る」or「口を滑らす」)。こういう表現は分析しがいがある。巧い。

この歌詞について教えてくれたMさんに捧げます。
言語学的な意味を質問してくれたのに、あの時答えられなくてごめんね。あれから認知詩学を勉強して、二年越しでやっと一つの答えを返せそうです。
紙幅が足りないのでここには答えを書かないけど、「図と地」理論をヒントにぜひ自分で考えてみてほしい(大学でさらに深く研究して、論文にしてもいいのよ?)。

参考文献

①Peter Stockwell(2002)Cognitive Poetics/An introduction
②ピーター・ストックウェル著、内田成子訳『認知詩学入門』鳳書房、2006年
③ジョアンナ・ゲイヴィンス、ジェラード・スティーン編著、内田成子訳『実践認知詩学』鳳書房、2008年


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