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ほんまる神保町で、棚主へ④

マクドナルドでハンバーガーを食べていた。そろそろ帰ろうかな、というところで隣の席にいた子どもが泣き始めた。二歳か三歳くらいの子。
いま立ち上がったら、子どもがうるさいから帰ろうとしていると思われる。少し様子見だ。すぐ泣き止むだろう。

五分経過。泣き止まない。
いま立ち上がったら、子どもの泣き声にうんざりして帰ろうとしていると思われる。

なにを泣いているのかわからない。しかし視線を向けようものなら、その子を一生懸命あやしているお母さんへプレッシャーを与えかねない。
私は中年男性である。その中年男性が突然子どもに向かって「どうしたのぉ? なんで泣いてるのかなぁ?」などと声をかけてきたら怖いだろう。そんなことをしたら、駆けつけた警官隊に銃把でぶん殴られかねない。

私自身、子どもの泣き声というのは平気だ。というか、なんの音かわかっているものならたいがい平気だ。
道路工事をしているときの爆音よりも、何の音かわからないささやかな音のほうがずっと苦痛に感じる。

そう。なぜそうなっているのかわからない、というのは苦痛なのだ。

自分の棚「床上五センチ書店」が稼働し始めてから初めての週末が過ぎた。天気も良かった。
だから、一冊くらいは売れると思っていたのだが、現実は甘くなかった。

「いやぁ、四冊しか並べてなかったんで、あっという間に売り切れちゃいましたわ。まあ、嬉しい悲鳴ってやつですな!」

とか言いたかったのに、普通に悲しい悲鳴しか出ない。

なぜ売れないのだろう。正直なところ、ゼロ冊のまま土日を終えてしまうとは思わなかった。客の入りも良かったはずだ。四冊置いてあるうちの三冊を面陳してあったのだから、目につかなかったということもあるまい。それに、置いてあるのは文庫ばかりだ。それぞれ千円もしない。

もしかして「床上五センチ書店」という名前がいけなかったのだろうか。土曜日の段階ではまだ代本板は完成していなかった。
しかし、並べてある本の裏側にはバーコードシールが貼ってあり、そこには「床上五センチ書店」という棚名が印字されている。
これおもしろそうだな、と手に取った客が、その棚名を見て「うわ、臭っ。やめとこ」となっているのではないか。

私は根がネガティブなのでそういう想像なら際限なく広げられる。いまだって「根がネガティブ」というところが迂闊にも駄洒落みたいになってしまったところを「うわ、こいつ駄洒落ぶっ込んできた」みたいに思われているのではないかと不安になったりしている。

私の父(故人)は人の話の腰を折ってまで駄洒落を言う人だった。以前、有楽町の三省堂でゲッターズ飯田氏の本を買ったことがある。占いの本だ。普段そういう本は買わないのだが、直筆サイン入りということで思わず買ったのだ。
それを帰省したときに持っていったところ、父が言った。

「そんな本が売ってるのか」

そりゃまあ、占いの本くらい売っているだろう。そんなことも知らないわけがないだろうに、と私が首を傾げると父は続けた。

「うらない、なのに」

なるほど。「占い」と「売らない」をかけたわけか。
悪い結果が出ますように! と念じながら父を占ったが、いまとなってはそのときの占いの結果など覚えていない。

いつの間にか隣の子どもは泣き止んでいた。それどころか笑っている。そんなものだ。
人間、どうせ笑うようにできている。
占うまでもなく、いずれ一冊目が売れる。

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