【短編小説】「空中散歩」(3/4)
樫村は、予定通り早めに仕事を片付け、午後六時過ぎから、歩道橋のそばの植え込みの手前にしゃがみ込み、歩道橋を張り込んだ。月齢はあの日と同じだった。
樫村に奇異な目を向ける歩行者もいるにはいたが、樫村のすべての意識は歩道橋に注がれ、全く気にはならなかった。しかし、一時間、二時間と経過しても、歩道橋には一般の歩行者しか現れなかった。夜の闇がとっぷりと満ち、街灯の下以外は真っ暗になった。
樫村はあえて言えば、幻が現れるのを待っていた。虹ならば、条件さえ合えば、誰でも出会うことが出来るが、半月の夜に空中に立つ女性など、夢物語も良いところだった。この一カ月、憑かれたように見つめていた月は、やはり悪女だった。自分を誘惑するだけして、何のためらいもなく、ぱっと手を離す。高校時代の彼女もそうだった。
樫村は、頭をぐしゃぐしゃとかきむしると、大きなため息を吐いた。それで諦めがついたのか、正座をした後のようにしびれていた両脚を伸ばして、何とか立ち上がり、歩道橋を渡って家に帰ろうと思った。今日をもって、この件のことは金輪際、忘れてしまいたくなった。
ふと、右手から歩いてきた女性が樫村の目の前を通過し、歩道橋の階段を上り始めた。樫村は何となく、その後ろ姿を目で追った。夜に女性の後ろを歩くことには、さすがに抵抗があったため、樫村は女性が歩道橋を渡り終えるのを待つことにした。
一段上るごとに、女性が夜空へと近づいていく。女性はただ階段を上っているだけだったが、樫村の瞳には不思議とそう映り込んだ。樫村は地上から離れていく女性に合わせ、徐々に視線を上げていった。そして、女性が最上段にたどり着いた時、一瞬、その後ろ姿が、樫村にあの画像の人影を思い起こさせた。樫村は脳裏に浮かんだ画像に気を取られ、女性から目を離してしまった。数秒の後、視線を戻すと、女性は当たり前のように、その先の階段を上っていた。
樫村は瞬きをし、我が目を疑った。彼女が上っているのは、明らかに見えない階段だった。理解が追い付かず、呆然としている間に、女性の人影が歩道橋の通路の遥か上空に到達した。まさに、空中浮遊だった。樫村は思わず、スマートフォンを取り出して女性に向け、シャッターのボタンを押していた。
――まるでその、かすかなシャッター音に気が付いたかのように、上空にいる女性が樫村の方を振り返った。女性が樫村を見下ろす。かなり距離が離れているにもかかわらず、一瞬にして、樫村と女性の目が合った。樫村は何かを射られたかのように硬直し、はっと息を止めた。樫村の手からスマートフォンが落下し、アスファルトの上で鈍い音を立てた。ロービームで路面をなめながら、大型トラックが歩道橋の下を通り抜けた。樫村の瞳に映る女性の姿は、淡い月明かりを背に、影絵のようなシルエットとなっていた。
間もなく、指先をパチンと弾き、催眠を解く合図を受けたかのように、樫村がからだの自由を取り戻すと、急いで足元に落ちていたスマートフォンを拾い上げ、考える間もなく、そのままクラウチングスタートのような恰好で駆け出した。一度、歩道橋の階段の前で急ブレーキをかけ、立ち止まるも、上空に立つ女性の姿を確かに認めると、ためらうことなく階段を二段飛ばしで駆け上がった。はぁ、はぁ、と息が上がる。樫村は歩道橋の階段の最上段で足を止めた。見上げると、影絵のように見えた女性に人間としての立体感が加わり、手を伸ばせば触れることさえ出来そうだった。だが樫村は、触れるよりも前に、女性に近づく最も手っ取り早い方法を選んだ。
「あの!」
女性に向かって、まっすぐに自分の声を届けた。すると、腕を組んでいるように見える女性が、ゆっくりと首を傾げたように樫村には見えた。
遅れて、
「はい?」
山彦のように小さな返事が返ってきた。透き通った柔らかな声だった。
「あの、あなたはいったい?」
樫村は続けざまに、大声を張り上げた。
「すみません。声が聞き取りにくいので、こちらまで来ていただけますか?」
樫村は、その小さな声を聞き取ると、分かりましたとすぐに頷き、見えない階段に足を掛けて、女性の存在と階段の存在を確かめながら、一段一段上っていった。間もなく、女性に手が届く位置までやってきた。再び見上げると、女性の顔が、表情が見えた。その顔は、無表情のようにも、微笑んでいるようにも見えた。まるで、太陽の光の加減で表情を変える月のようだった。
つづく
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