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下関弾丸旅行

高杉晋作を愛し隊隊員による一人旅

 またやったのか、と思うだろう。そう、またやってしまった。今度は、高杉晋作と奇兵隊を追う旅になった。もともと奇兵隊に関する知識はそこまであるわけでもなかったので、その勉強にもなると思い、計画を行動に移した。
 一応、下関の観光をしたが、皆が行くような唐戸市場などは一切行っていない。なかなか人が行かないような場所が(自動的に)ピックアップされている。下関観光をしたいけれど、人混みが苦手な人、維新幕末が大好きな人にはおすすめの観光スポットばかりなので、ぜひ参考にしてみてほしい。

山陽本線で長府へ

 山陽本線を使って、のんびりと長府へと向かった。もちろん、新幹線を使ってもよかったのだが、どうしても読書の時間が欲しかったので、在来線を使うことを決めた。新山口駅で山陽本線に乗り換えると、下関行きに乗車。一坂太郎の『高杉晋作の「革命日記」』を読みつつ、山陽本線のゆったりとした走行に体を預けた。

実際に車内から撮った写真

 どこを見ても田んぼと山が広がる。当時はこれを徒歩で移動していたのか、と思うと感動するものがあった。何気なく使っている電車だが、一駅分歩いてみたらその有難さが分かる。いい運動にもなるので、ぜひやってみてほしい。

駅前の看板をバスの中から

 長府駅に着くと、こんな看板が。長府も古い町並みが残っており、歴史学習にはもってこいの場所だ。しかも、多くの人が次の駅の新下関や下関駅に流れるため、人混みはほとんどない。サンデン交通の下関行きに乗ると、目的地である「功山寺」へと向かった。

 功山寺へは「城下町長府」で降りると一番近い。すぐ近くの横断歩道を渡り、川をさかのぼって歩けば簡単に辿り着く。

功山寺挙兵の碑

 だいぶ見えにくいが、功山寺挙兵の碑があった。功山寺は高杉晋作が奇兵隊の挙兵を行い、長州藩へのクーデターをするために立ち上がった場所だ。確か、その当時立ち上がったのは80人ほど。勝てるはずのない戦から始まった。しかし、奇兵隊は快進撃を続け、山縣狂介(山縣有朋)も重い腰を上げてそれに加わる。その始まりの場所だ。ここで彼は「これよりは 長州男児の腕前 お目に懸け申すべく」と宣言。いざという時にちゃんと決める(個人的に)長州一イケてる男、高杉晋作。

緑のトンネル

 緑のトンネルを見た時に「あ、明倫学舎のVRで見たやつだ」となった。明倫学舎のVRでは功山寺挙兵のシーンがあるのだが、まさにここだった。両脇に流れる水と通り抜ける風が心地いい。夏場にぴったりな観光地だ。そして、見て分かる通り、ほとんど人がいない。人混みが全くないので、のんびりできる。

境内を進み、参拝を終えると、真っ直ぐの元へと向かった。


高杉晋作騎馬像

 すごくアングルに悩んだ。推しを最高にカッコよく撮るためにどうするかで5分ぐらい格闘していた。人がいなくてよかったと改めて思う。

功山寺の名水

 像のすぐ目の前に名水が飲める場所があった。神社仏閣の名水を飲むのは二回目。一回目は京都の北野天満宮だった。推しが飲んだのなら、飲むしかない!と思って、飲んでみた。地下水なだけあって、混じりっけなしという感じ。何となく、熊本の玉名を思い出した気がする。とりあえず、気になる人は実際に行って飲んでみてほしい。

 功山寺で推しを堪能した後は、すぐ近くの下関市立歴史博物館へ。学生料金で常設展、企画展合わせて200円だった。

下関市立歴史博物館の入口

 常設展から。下関の歴史についてを知ることができ、長州軍が使っていた大砲を間近に見ることができる。また、下関戦争についてのビデオもあり、しかも英字幕付き。英語の勉強のために英字幕で見た。(※英字幕で見る際、常設展に人がいなかったことをしっかり確認しました)
 結構詳しい説明がされており、それまでの長州藩の経緯や事件の軽い説明もあったため、簡単に理解することができた。長州藩にとって重要な戦いであり、近代化への一つのきっかけである下関戦争。晋作にとっては、どのような戦いだったのだろうか。
 彼は戦争中に脱藩の罪で野山獄に投獄されてしまい、また、諸事情で奇兵隊総監を罷免され、本格的にこの戦争に参加することはできなかった。しかし一応、彼はこの戦争の講和条約締結に関わっており、その態度は「魔王のごとく、傲然としていた」とか。彼の一番の功績は多分、濡れ衣を幕府に着せたことと彦島の租借地化を免れたこと。賠償金を幕府に払わせ、彦島の租借地化を古事記を暗誦することで免れたのだ。多分、古事記の暗誦は、彼が松下村塾に入って学業に励むようにならなかったらできなかった業だ。
 この戦争で晋作が目立ったのは最後の最後だけ。もしかしたら、悔いの残る戦いだったのかもしれない。この後の四境戦争では華々しい活躍を遂げ、志半ばで結核に倒れて散っていく。

 ちなみに、展示品には龍馬関連のものもあり、龍馬が遊郭で遊んで帰ってきたときにお竜へ即興で送った歌があった。お竜はカンカンに怒っていたそうだが、龍馬の歌を聞いて許したとか。歌の内容は簡単に要約すると「浮気はしないよ」。この幕末バカップルめ。

長府毛利亭の入口

 次に長府毛利亭へ足を運んだのだが、正直に言おう、私しかいなかった。維新幕末よりも後の時代にできた邸宅ではあるが、涼むのに丁度よかったから行きたかった。お抹茶を頂けるそうなので、ぜひ休憩に足を運んでみてほしい。

長府毛利亭の中

いざ、東行庵へ

 さあ、高杉晋作に会いに行こうじゃないかと、サンデン交通の美祢線に乗る。ちなみに、ほとんど人がいなかった。便数が少ないので、東行庵に行きたい人は、事前に時刻表を見ておいた方がいい。
 東行庵入口で降りてすぐ、昼ご飯にYH SPACEさんへ。奇兵隊ファンの方は必見のお店だ。

お店の外装
実際のメニュー

 こんなランチメニューありかよ!と思った。とりあえず、奇定食を注文すると

奇定食

 超おいしそうな和食定食がずらり。このボリュームで1000円いかないとかマジ?って思った。ちなみにお味噌汁のおかわりとふりかけが無料。コスパ最強なので、ぜひ行ってみてほしい。
 そして、お会計を済ませた時、店員さんが私のリュックについている晋作バッジに目を付けた。「高杉晋作のファンなんですか?」の質問に激しく首を縦に振ると、店長さんから衝撃の一言が。

「高杉晋作の刀の模造刀あるから、記念撮影に使っていいよ」

 正直、目が点になった。そんなことあるのかよ、と思った。というのも、晋作の愛刀である「安芸国佐伯荘藤原貞安」は所在が判明していない刀で、刃文などの刀身の情報がなく、拵えと長さの再現ぐらいしかできない。それでも、模造刀って作れるのか、と驚いた。
 低身長な晋作にとってはちょっと長かったらしく、よく引きずっていたらしい。そこで、晋作とほとんど身長が変わらない私(厚底を履いているため身長は+5㎝ほど)がその刀を持ってみた。

実際の写真

 脳内で厚底分の身長を縮ませてみてほしい。確かに引きずりそうな気がする。ちなみにネット検索で引っかかる写真の晋作と比べてもらったら分かるのだが、無意識に同じ場所を持っていた。諸々考慮してみると、晋作の立った姿がなんとなく思い浮かべられる気がする。

 写真を撮ってくださった店員さんと店長さんに御礼を伝え、店を後にする。

橋の名前は「晋作橋」

 道中の橋の名前がなんと「晋作橋」。温泉施設は「晋作の湯」と、地元から愛されまくりの晋作。萩で走っているバスの名前も「松陰先生」と「晋作くん」だ。当時、松下村塾生は白い目で見られていたけれど、今ではこんなにも愛されてる。なんだか、それを思うと嬉しくなってきた。そして、ついに目的地の東行庵に辿り着いた。

東行庵の石碑

 東行庵自体は無料で見て回ることができ、四季折々様々な花を楽しむことができる。4月14日には晋作の命日に合わせて東行忌が行われ、数多くの参列者がこの東行庵に集まる。

晋作の有名な名言が

 高杉晋作といえばこの名言だろう。「面白き こともなき世に おもしろく」。彼が結核で病床に伏しているときに詠んだものではないかとよく言われる。一般的にポジティブに取られがちな名言だが、いいところで戦線離脱を強いられた晋作からすれば、悔しさを表現した歌なのではないだろうか。いつも中途半端で失敗に終わる彼の人生。成功に辿り着いたことはほとんどなかった。それでも懸命に駆け抜け、日本の夜明けへと、次世代へとその志を託した。感傷に浸りつつ、境内をゆっくりと見て回る。

高杉晋作像

 これは故安倍晋三から送られた高杉晋作像。やっぱり、刀が長い。でも、凄く凛々しい。何百年も後の首相からもこうやって尊敬されてるなんて。政治の話にはここで首はつっこまない。ただ、伊藤博文、山縣有朋、安倍晋三と三人もの歴代首相から尊敬されている人物である。この事実に未だ驚きを隠せない、ただそれだけだ。

蓮の花が咲く東行庵

 一通り池の方を見終わったら、一度東行記念館へ。ここには高杉晋作の遺品が多く残されている。常設企画展として、奇兵隊の歴史を辿ることができた。これは、奇兵隊のことを知れるチャンスと思い、一つ一つじっくり見て回る。一番驚いたのは、奇兵隊の訓練内容。騎馬や剣術はもちろんのこと、座学もきちんと執り行われていた。朝の6時から訓練が始まり、夜の8時ぐらいまで座学や訓練を行っていたとか。こんなに徹底されているとは思わず、その場で絶句してしまった。そして、受験生時代を思い出した。「なんか、朝の8時ぐらいから夜の10時ぐらいまで私も塾に缶詰だったな。学校がある日は5時30分に起きて、夜の10時ぐらいに帰ってたな」なんてことを思いながら奇兵隊の歴史を学んだ。

 ずっとほしかった東行庵の御朱印帳を購入後、去り際に学芸員さんから「勉強頑張ってね」の一言。これからも精進します。

コラム:山縣狂介(有朋)と高杉晋作

山縣有朋像

別に興味ねーよ、という方は飛ばして下さって構いません。


 東行庵を語るうえでこの二人の関係性は外せない。実はこの二人、結構仲が良かったらしく、互いの枕に歌を書きあったり、晋作から狂介へとひょうたんや手紙が送られていたりしたらしい。その手紙の内容は「儂とお前は焼山葛 裏は切れても根は切れぬ」と、晋作お得意の都々逸方式で「俺たちって仲いいよな!」と言っている。しかも、晋作が結核で倒れた際は、薬を嫌がる晋作に薬を口移しで飲ませたとか。資料を読んだ時、目が点になった。こいつら、こんなに仲良かったのかと。
 晋作の病状が悪化していく中、山縣さんは挙式を挙げていた。そして、晋作の危篤を耳にした山縣さんは披露宴を飛び出し、彼の元へ向かう。一方、晋作は「狂介はまだか!」と叫び、「山縣さんなら、挙式を挙げていますよ」と伝えられると、「ああ、そうであったか。よく言っておいてくれ」とだけ言いった。山縣さんが彼の死に立ち会えたかどうかは不明だ。
 晋作の死後、山縣さんは今の東行庵がある場所に無隣庵を立てて、晋作の遺言に従い、この地に遺骸を埋葬。生前も、死後も晋作を支え続けた男、それが山縣狂介、またの名を山縣有朋だ。

東行庵の看板

晋作の墓参り

 実は晋作本人がいるところに行くのは初めてな私。ちょっと迷子になった。実は、東行庵には奇兵隊隊員のお墓もずらりと並んでおり、地図を見てもどこに誰がいらっしゃるのかが分からない。虫と格闘しつつ、ちょっと迷子になりながらもやっと晋作のいる場所に辿り着いた。

 ※お墓の写真は撮ったら不敬になると判断したため、どんな人のお墓であっても、撮っていない。

 お墓の前に立ち、お線香代わりにお賽銭を一つ。なんとなく、晋作は志半ばの死に後悔しているような気がしたので、しっかりと彼の激動の生涯に感謝を伝えた。次は愛人のおうのさんのところへ。今度は、晋作のお墓を守ってくださったことに感謝を伝えた。流石に、奇兵隊隊員の皆さんに一人一人感謝を伝えるのは大変なので、お墓がある方向に向かって合掌と一礼。これで、伝えたいことは伝えきったはずだ。

おやつの晋作餅

買ったのは紫蘇入り

 おやつには東行庵の向かいで売っている晋作餅がおすすめ。1つ120円。紫蘇のかおりがふわりと香る餡子入りのお餅だ。できたてホカホカなのでぜひ食べてみてほしい。

最後に、奇兵隊陣屋跡へ

 最後に奇兵隊陣屋跡へ。そう、例の訓練を行っていた場所だ。


奇兵隊陣屋跡の碑


奇兵隊隊士像

 東行庵からはかなり歩くが、一応町内にある。もし、気になる人がいるのであれば、行ってみてほしい。

下関旅行をしたいけど人混みが苦手な人へ

 下関旅行をしたいけれど、人混みが苦手な人はいるだろう。そんな人には、長府がおすすめだ。おしゃれなカフェや古い町並みがあり、マイペースでのんびりできる。東行庵は高杉晋作が好きすぎてたまらない人か、美しい花々を堪能したい人におすすめする。

小月駅前の看板
小月駅にあった御朱印マップ

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