だれでも絶滅少女
多分愚痴です。
読むのは非推奨ですが、何となく消しません。
「他人に期待しすぎない」なんて言葉は短絡的すぎると思うのだ。浮かれちゃわないように、そう思って生きることは出来る。期待したいと思ったなら裏切られた気分になるのも普通なのに、初めから他人に疑念を抱くのは失礼だと感じる。
『特別なんて差別』
大森靖子の『だれでも絶滅少女』という曲にこの歌詞はある。
私は気付く。他人の言葉や行動の一つ一つ、自分で良い意味付けをしてしまうから苦しくなる。私は友人付き合いに意義を見出すために相手の良いところを意識的に探していた時期があり、自分の価値観に関する認識が再び混乱してしまった要因にもなった。一番大切なものは具体的な言葉に出来なくたって、今まで蓄積してきた己というものに全て詰まっている。その自信を喪失することだけは許してはならないと、そう思っている。私は世辞を言わなくなった。相手の特別なのだと思って美化した世界にいる私を< わたし >として認識しても、私の尊厳は簡単に崩れていく。忘れていく言葉に縋っていても、相手が特別と思わせてくれた時間は永遠には続かない。そう思った。
特別なんて差別という言葉が分かった。私は何人かのうちの一人で、その中の複数とその子にある関係性とその子と私の関係性は異なる。普通に楽しいことだけ考えて「友達」という枠に一緒になって憑かれて互いの不満は言えない。そういう関係性にはなれない。「ないものねだり」と言われるだろうが、私とその子の関係性を強請る人などいないと感じる。依存したい又は依存されたい人間には羨ましい関係性なのかもしれないが、そういった人間には物足りない程度の不定期的な関係性だ。
都合良く扱われてる、なんて言葉に出来ないほどには私がその子を必要としている。そのことを気付かれたくないが、孤独は皆んな感じているのだから誰かには気づかれているだろう。まぁその子はそんな分析をするような人間ではないだろうから、それがせめてもの救いだ。関わってあげていると思っているのかもしれないと考えるのは心が傷んだ。必要としているのはその子なのに、その子がそういった素振りを微塵も見せない。そう考えるのも馬鹿馬鹿しい。きっとこの関係性は何も考えないものなのだと決めた。
「自分の人間性が終わっていることを認識するからこそ辛い」とその子が言うのは単に「辛い」自分を可哀想と思いたいだけで、自分の欠陥に気付かない方が良いと思っている時点で変わる気がないのだ。私は頭に流れてくるそういった言葉を無視し、穏やかに協力者としての人格を見せるのだ。多面体の人格を持つその子やその子の複数の友人より、二面性を持つ人間の方が正常で人情があるよな絶対。なんてことを思いながら。
雨降る窓の外を眺めてお弁当を食べていると、私の人生こんなに悲惨じゃないもんな、なんて思える。雨が比喩的な何に見えるというわけでもないが、いつか何かに見えるのだろうか。そんなことを思っている。
最近、神聖かまってちゃんの曲に再び虜になっている。夕暮れメモライザは以前からずっと聴いて言うまでもないが、その他の毒々しい感情が剥き出しになったような曲も安定した精神状態の心でさえ魅了される。これが私の安定だと言えば、その精神状態が自分の安定となる。そう思うようになった。決して希望らしい希望を捨てているわけではないが、今の自分に味方してくれるのは神聖かまってちゃんなのだ。それ自体に良いも悪いもない。
絶滅しそうだと思った時は意識的に一人で過ごしてみるから自分の一面がちゃんと見えるのかもしれない。それに、ずっと群れている人達は自分の一面に気付かないのかもしれない。多面体の人格は他人のお古の継ぎ接ぎで出来ているような気がしてならない。
それで、アドバイスをしたんだ。
「自分が悪い影響を受けてしまうなと思った人とは付き合い方を考えるというのもある」って。
あまり調子にのっていると地獄を見るかもしれないが、今日だけは良くない気分でいたい。
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