雑記 2024/03/18
最近、書いていない。
I AM THATを一章ごとメモ書きしていくのが、重荷になっているのだ。
やはり、
マインドの為すことは 矛盾する
ということなのだろう。
それを気にすることはない。
私はマインドではないのだから。
と、ニサルガの言葉があったような気がしている。
どこかは忘れたが。
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少し前まで、「言葉」や「認識」について考えることが多かった。
しつこいが、
質問者の「言葉の巧みさ」と
ニサルガのいう「言語化不可能」が
何か私に、引っかかっているのだ。
それで一つ思い出した。
「はじめに言葉ありき」 というのがあった。
新約聖書だ。質問者はほとんどキリスト教徒だっただろう。
そして、ディベートというのは英語圏の文化ではなかっただろうか。
それを手掛かりに、調べてみた。
この指摘が、非常に鋭いのではないだろうか。
日本での誤解に触れているが、日本だけだろうか・・・
「In the beginning was the Word」
これを全力で信じれば、論理・言葉を第一に置くのは不思議では無い。
ロゴス=神の言葉 なのである。
人間社会の言葉ではないのだ。
では、神の言葉とは何なのだろう。
ニサルガの言う「実存からの反映・光・愛」ではないだろうか。
結局、これらは言語化不可能なのだが。
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この世界のモロモロは、ほとんど全て言語化不可能じゃないか。
と、私は飲み込めるのだが・・・
そうではない人もいるのだろう。
タコのおいしさを知らない外国人には、
アレコレと議論せずに、うまいタコ焼きを食わせてやるのが一番ではないだろうか。
五感の情報ですら、言葉に置き換えた時点でかなりの情報が落ちてしまうのだ。
五感情報を言葉に完全に含めることは出来ない、できるなら五感はいらないんじゃないか。
そうゆう次元・宇宙はココではないんじゃないか と、私は思う。
終末期、自ら選択して分かれていく と言うじゃないですか・・・
五感の外の「真我・実存」を下手に言葉にせず、「言語化不可能」と伝えた方が混乱しないというのも、あったんじゃないだろうか・・・
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ただ、信じるのだ。
彼がそうしたように、私も信じよう。
もうすでに、ここに在る。
身体ではなく、マインドではなく、どの私でもない。
何か と、定義付けされることなく
何か と、同一化されることもない
しかし、確かに在る。
ただ起こる 生活の中
身体とマインドの アレコレ
見送りながら 気付いている
私。
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