捨てるゴミ箱が無くても
燃えないゴミと燃えるゴミのどちらに自分を分別できるかと問われたら、答えはどちらでもない。この二択は極端すぎる。この二択だと僕をバラバラにして分別する必要がある。僕を丸々捨てるには「燃えきらないゴミ」を新しく設ける必要がある。
コンビニに置かれているゴミ箱には燃えるゴミと燃えないゴミとが設置されているが、持っているゴミがどっちに捨てればいいか分からないゴミで、結局そのゴミを捨てないで店を出ることがよくある。その度にこれは自分自身だと思う。
人は自分の悪習や短所を捨てながら生きている。直したい、無くしたいと思うことを改善していって「燃えるゴミ」に捨てていく。だけど燃えない短所もあって、それは一生付きまとってくるものだから上手く折り合いをつけていかなきゃいけない。それは燃えないゴミに捨てておく。この場合は捨てておくというより入れておくと言ったほうが良いかもしれない。
でも時折、どうしようもなく自分を否定したくなる時が人にはある。分別してでなくそのまま丸ごと捨ててしまいたくなる時がある。上手くいかなかったり、サボってしまったり、自分が自分を上手く動かせなかった時にそう思うことが多い。でも何故だろう、捨てたくても捨てるゴミ箱は無いし、そのゴミを捨てようとしてもそれを握る手は前より握る力が強くなっている気さえする。僕は自分の事を燃えきらないゴミだと思っている。それは何かに情熱を注ぎたくて、一瞬、そして激しく燃えるけれど、少し風に揺られればすぐに消えてしまう。燃えたくてもすぐに火が消えてしまうどうしようもない存在だからだ。
だから燃えるゴミに自分を入れることも出来ないし、自分はもう燃えないと割り切って捨てることも出来なかった。捨てられないのは捨てきってしまうともう取り返しがつかない気がしてそれを見たくない現実逃避もあったと思う。でもそれ以上にその一瞬ではあるけれど激しく燃える瞬間がとても美しくみえたから、こんなどっちつかずの人間でも燃えることが出来るんだと感動したからだ。その瞬間を忘れられない。どんなゴミでも、燃え上がる瞬間は等しく熱くて美しいのだと思わせてくれるから。
そして他人に捨てちまえと言われるものほど握る力は強くなる。捨ててしまうというものは確かに捨てたほうが得は多いし、正論なものが大半だ。でも、でもだ。そのどうしようもないゴミを捨ててしまったら誰が拾ってくれるのだろう。自分以外の誰がそれに価値を見出してくれるのだろう。そのゴミだと思っているものは自分が産まれてからずっと握りしめていたものだ。それはとっくに使い古されていて、汚れもついてる。ヴィンテージなんて言うのもおこがましい物だ。それを一体誰がもう一度拾ってくれるだろう。誰もいない。誰がそれを握ってもしっくりこないだろう。もうそれは自分の為にしかない。自分だけがそいつを握れて、他の人は握れないなら握るしかない。もし捨ててももう一回拾い直すのは自分しかできない。
僕は燃えきらないゴミだ。自習室にいても小説にかまけて2時間無駄にしたり、このようにエッセイを書いたり、とにかくどうしようもないことばっかりだ。周りもそれを見て捨てるべきだと言うだろう。でも僕は知っている、僕だけがしっている。このどうしようもないゴミが燃える時、どうしようもなく輝いていることを。
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