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【シリーズ第14回:黒人アーティストの人生】🎵ソウル(魂)を感じたい🎵

 このシリーズでは、私の大好きな黒人アーティスト、特に、1970年代、80年代に活躍したR&B、SOULミュージシャンを紹介しています。

・・・さて、誰でしょう🎵

さて、誰でしょう🎵

ヒント

  1. ソウル、R&B、ファンク、ゴスペル、ブルーズシンガー。

  2. シンガーソングライター、プロデューサー、ダンサーでもある。

  3. 1960年代、ファンクのサウンドの発展に大きな影響を与えた、ファンクの先駆者です。

  4. キーボード、ドラムス、ハーモニカ、ギターもできます。

  5. ソウルのゴッドファーザー、ファンクの帝王、ナンバー1ソウルブラザー、Mr.ダイナマイトなど、多くのニックネームの持ち主。

  6. 数多くのアーティストに、そして黒人社会に影響を与え続けてきました。

  7. HipHopで最も多くサンプリングされているアーティストです。

  8. 働き者でーす。

生い立ち

 1933年5月3日、サウスカロライナ州バーンウェルで生まれました。
 家とは言い難い、木の小屋で、両親と3人で暮らしていた。
 パパは生活のために、製油用の樹液を集めていたけれど、どうしようもなく貧乏だった。
 ママは、あまりの貧乏ぶりに耐えられなくなり、4歳の彼を残し、ひとりで逃げ出してしまう。
 パパと彼は、ジョージア州オーガスタで売春宿を経営するおばさんの家へ移り住む。
 彼は、通り過ぎる兵士たちのためにバックダンス(主にアメリカ南部のもので、ソロで踊るタップダンス)を踊ったり、お年寄りの荷物を運んで、わずかな小銭を稼いでいた。

 おばさんはいつも、

 「あなたは何か成し遂げるわよ」

 と言い続けてくれた。

 とはいえ、売春宿の環境は、彼に「他人を信用しないこと」を教え込んだ。
 
 おばさんの家でも貧乏だった彼は、15歳のとき、車から衣類を盗み、少年院へ送られる。

 この時に出会う人物が、後にバンドを組むことになる、Jonny Terry(ジョニー・テリー)と、Bobby Byrd(ボビー・バード)だ。

 1952年、Bobbyの家族の協力で、早期に仮釈放になった。

 「これからは神様のために歌います!」

 と約束した彼は、Bobbyの妹、続いてBobbyが組んでいたゴスペルグループに参加する。

バンド活動

 その時代、彼が憧れていたミュージシャンは、サックス奏者のLuis Jordan(ルイ・ジョーダン)だ。
 Luie Jordanは、アップテンポのブルーズや、スウィングジャズを、踊りながら演奏する。
 そして、ビッグバンド、特にホーンセクションを率いて、スウィングジャズを演奏していたDuke Ellington(デューク・エリントン)。

 Bobbyのバンド「The Famous Flames(ザ・フェイマス・フレイムス)」は、次第に、彼が中心となり、彼が憧れていたバンドのスタイルに発展していく。
 そして、そのサウンドは、ゴスペルからR&Bに移行する。 

 ある日、Little Richard(リトル・リチャード)が、ジョージア州に来ることを知った彼は、すぐに接触を試みた。
 その結果、Little Richardのマネージャーが、バンドのマネージメントをすることになり、1955年、地元のラジオ局で、デモ・セッションができることになった。

 この時、演奏した曲が、オリジナルの「Please Please Please」。
 

その人物とは・・・








 James Brown (ジェイムス・ブラウン)で~す。

 「お願い、行かないで~、プリーズ、プリーズ、プリーズ」と言い続けるだけの歌だ。

 けれども、これが世界中の女性の心を鷲掴み。

 James Brown:ぷり~~~ずっ!!!

 観客:きゃ~~~~~~っっっ!!!

 1956年3月、「Please Please Please」は、King Recordsの子会社、Federalから、再録音されたヴァージョンがリリースされ、大ヒット。
 なんと、ミリオンセラーを記録する。

 1957年、James Brownが迎え入れた、新しいマネージャーは、グループ名を「James Brown&The Famous Flames」に改名する。
 このことで、オリジナルのメンバーは解散してしまう。

 しかし、そんなことでへこたれるJames Brownではない。

 1958年10月にリリースしたバラード「Try Me」は、R&Bチャートで1位を獲得し、次々と新しいスタイルの音楽を生み出していく。

スターダムを駆け上る~☆

 1962年10月24日、ニューヨークのApollo Theaterの前には、長~い行列ができていた。

 この日、James Brownは、実費で初のライヴレコーディングを行った。

 翌年リリースされたこのアルバム、”Live at the Apollo”は、King Recordの予想を裏切り、大ヒット!
 66週間もトップチャートに残り、ミリオンセラーを記録した!

 このアルバムのない黒人家庭は存在しない!
 
 収録された一曲が、”Night Train”。 

 どうだ~っ!!このエネルギッシュなパフォーマンス!!!

 Mr. ダイナマイトだ~~~~💣🧨💣🧨💣🧨

 これら”Please Please Please”と”Night Train”の映像は、1964年にサンタモニカで開催された、T.A.M.I.Showのコンサートフィルムの一部。
 The Rolling Stonesや、The Beach Boysと、モータウンからThe Miracles、Marvin Gaye、The Supremesなども参加した、人種をクロスオーヴァーしたイヴェントだった。

 ステージも客席も、クロスオーヴァー。
 黒人はもちろん、白人女性からも大歓声が起こる様子に感動です♡♡♡

 コンサートの最後、James Brownが自分のネクタイを外し、客席に投げるフリをする。
 パフォーマンスとはいえ、彼がお金に細かい、厳しい?人だと知って見ると、違うおもしろさがある。

 さて、ぐんぐん人気者になっていくJames Brownが、”Papa Got a Brandnew Bag”で、ついにグラミー賞を獲得した!!
 1965年のことだった。

 "Papa Got a Brandnew Bag”に続きリリースされた、”I Got You and I Feel Good"も、大ヒット!!!

 ジャカジャカジャカジャーン!!

 フ・ァ・ン・キ・ー!!!!!

 「いい気分だぜ~!
 砂糖とスパイスがめぐり合ったみたいに、いい感じ。
 君を抱きしめていたら、間違いないね。
 あ~、いい気分だな~」

 これを繰り返しているだけの歌詞。

 レコードでは、James Brownのシャープなダンスが楽しめないからなぁ・・・と思うけれど、とんでもなーい!
 リズムがめちゃめちゃカッコいいので、レコードになっても、やっぱり楽しいのだ~!

 この映像(1966年)は、大人気のエンターテイメントショウ、Ed Sallivan Show(エド・サリヴァン・ショウ)に出演したときのものだ。 
 Ed Sallivanは1960年代、最も人気のあった司会者だった。
 その番組に、黒人の彼らが出演した!

 このとき彼は、黒人アーティストの中でも、違うレベルに達した。
 そしてこの瞬間、すべての黒人が、彼を誇りに思った。 

ソウルです

 アップテンポの曲が続いたけれど、James Brownのバラードもカッコいい。

 ザ・ソウル!!!

 といえば、”It's A Man's Man's Man's World”だ。
 彼の人生を感じられるビデオです。

 はじめて聞いたときは、衝撃的だった。

 「男は文明を築く。ノアが箱舟をつくったようにね。
 車、列車、電気を発明し、金を儲ける。
 それが男の世界さ。
 でも、女がいなけりゃ、どうすることもできない。意味ないんだよ」
 
 黒人の彼が歌うと、文明を築いてきた、彼ら黒人の心の叫びを感じずにはいられない。
 深いなぁ・・・。

 と感じていたけれど、実はこの曲は、彼のガールフレンドが、James Brownとの関係を通して、書いたものだった。

 「あんたは金儲けはできるけど、女がいなきゃ、なんもできないのよ!」

 と言いたかったのかな?

 James Brownが、彼女にロイヤリティをきちんと払わず、訴えられるというアクシデントもあった。

 こんな情けない部分もあるからソウルなんだろうなぁ。

Money Money Money

 1967年にリリースされた”Cold Sweat”は、The Funk と、公的に認められた曲だ。

 Macio Parker(メイシオ・パーカー)のソロがかっこいい🎵

 他の奏者にソロをまわすシーンができたのも、この曲から。
 
 さて、映像を見ていると、メンバーの誰ひとりとして気を抜かず、常に緊張していることがわかる。
 
 なぜか・・・。

 完璧主義者の彼は、タイミングを間違えたり、音を外したメンバーに対し、罰金を課すからだーっ!
 しかも、演奏の最中に。
 ミステイクをした人に対し、James Brownがグーパーをすると5ドル。二度繰り返すと10ドル。
 メンバーは、タイミングを逃さないよう、James Brownの動きから目を離すことができない、という仕組みになっている。

 罰金は回収するけれど、レコーディング代など、サラリー以外で支払うべき報酬を出し渋るのが、James Brownだ。
 
 バンド・リーダーのPee Wee Ellis(ピー・ウィー・エリス)は、James Brownが曲を書く上で、なくてはならない存在だった。
 1965年から1969年の4年間で、”Cold Sweat”を含む、26曲をJames Brownと共に書いてきた。
 けれども、彼が作曲の報酬を受け取ったことはないらしい。 

 James Brownが要求したことは、サウンドだけではない。
 時間厳守はもちろん、身だしなみにも厳しかった。
 スーツはクリーンでアイロンが当てられていること。
 靴はピカピカに磨かれていること。
 移動のバスの中でも、リラックスした服は許されない。
 これらも守っていなければ、罰金が課せられ、給料からバンバン抜かれていく。

 幼少期に衣類がなく、学校へ行けなくなった経験、母親に捨てられ、ド貧乏から生き抜いてきた彼にとって、常にピシッと身なりを整えることは、ただのおしゃれ以上のものだった。

 彼にとって、”リスペクト”は絶対だ。

 そしてエンターテイメントは、彼のビジネス(ショウビジネス)だ。
 
 最高のエンターテイメントを提供し、人々からリスペクトを得る。

 完璧な演奏も、身だしなみも、彼にとっては当然のことだ。
 メンバーを金で抑圧しているという意識はなかったのかもしれない。
 そして彼の経験、人生を振り返ると、バンドをコントロールする他の方法、選択はなかったんじゃないかな?・・・と、これは私の想像です。

P・O・W・E・R!!!

 そうはいっても、やっぱり彼はスペシャルだ。

 最も印象深い出来事といえば、1968年4月5日、キング牧師が亡くなった翌日に行われた、ボストンガーデンでのコンサート。

 キング牧師暗殺により、多くの都市で暴動が起きていた。
 コンサートを開催することで、一か所に人が集まることも危険だ。
 けれども、中止すれば、黒人が暴徒化する可能性もある。

 ボストン市長は、コンサートの決行と、その映像をテレビで放送することを、市民に伝えた。
 その結果、市民をテレビの前に釘付けにすることに成功し、ボストンだけは、暴動を最小限に抑えることができた!

 すごいぞっ!市長!

 と言いたいところだけれど、実は、James Brownだったから、この計画は成功したと言ってもいい。

 警察官がステージに上がって来ようとする観客を突き落とすと、彼は、

 「俺は大丈夫やから」

 と言って、警察官を制止した。

 「俺たちは黒人やろ!
 君たちは今、俺に恥をかかしてる。
 俺は、警察官の介入を制止したにも関わらず、君たちは席に戻らない。
 それは間違ってる!
 君たち自身も、俺に対しても、俺たち黒人に対しても、君たちがしてることは公正じゃないぞ!
 紳士になれ!
 警察官に引いてもらった俺に対して、君らはリスペクトを示すべきや。
 コンサートを続けたいなら、席に戻りなさい!」

 お見事!!!

 もし、このとき警察官が介入し、黒人に暴力を振るっていたら。
 もし、このときJames Brownが、彼らを鎮静することができなければ。

 きっと、テレビを観ていた人たちがストリートに飛び出して、暴動を起こしていたんじゃないかな?

 とはいえ、James Brownは、やっぱりJames Brownだった。

 コンサートの映像が、無断で放送されたことを知った彼は、ボストン市長を脅し、チケット販売に及ぼす影響を含めた金額、1万5千ドルを手に入れた。

 続いて、同じ年の8月にリリースされた、”Say It Loud – I'm Black and I'm Proud”は、黒人コミュニティに大きな影響を与えた。

 James Brown:大きな声でいいなさい
 子供たち:私は黒人であることを誇りに思っている!

 録音は、1965年に暴動を起こした、ロスアンジェルスのWatts(ワッツ)で行われ、そこで暮らす子供たちが参加した。

 ライトスキンの方が、ダークスキンよりも良いという意識が、一夜にして逆転するほどのパワーがあったと言われている。

ニューバンド!!!


 音楽的にも、社会的にも、重要なポジションにいたJames Brownだけれど、相変わらず、金銭トラブルは絶えない。
 1970年3月、彼のバンドメンバーのほとんどが、去って行った。

 しか~し、そんなことで、どうにかなる彼ではない。

 新しくベーシストのBootsy Collins(ブーツィー・コリンズ)、彼の兄弟で、ギターリストのCatfish Collins(キャットフィッシュ・コリンズ)が加わり、バンド名もThe J.B.'sに改名!

 ゲロッパだーーーーーっ!!!

 ドファンクだーーーーーっ!!!

 こんなにファンキーに、ソウルフルに、ゲロッパ(Get up)を言い続けられる人は、James Brownしかいない!!!

 この曲のレコーディングはまともにリハーサルもせずに始まった。
 曲を進行しながら、James Brownがバンドに指示を出す。
 バンドは全神経を集中させ、彼のリードに適応していく。

 J.B.'sでなければ、このサウンドは出来上がってなかっただろうなぁ。
 

社会運動

 「人種に触れることは、人種を分割することにつながる」

 という考えを持っていた彼は、基本的に人種問題に触れることを避けていた。

 けれども1960年代は、キング牧師をサポートすることもあれば、反戦運動者に対して、

 「自分を哀れむのはやめて、立ち上がって戦え!!!」

 と呼びかけるメッセージソング、”America is My Home”をリリースすることもあった。

 クロスオーヴァーするファンを持つ彼が、白人ファンと黒人ファンの間を行ったり来たりしているイメージを拭うことはできなかった。

 また、1972年の大統領選では、Richard Nixon(リチャード・ニクソン)、1984年はRonald Reagan(ロナルド・レーガン)を支持し、

 「黒人の彼が、なんで???」

 と思うこともあった。

 けれども、一貫していたこともある。

 それは、若者に教育を促すことだ。

 「Don't Be a Dropout(中退するなよ)」(1966年)の印税は、中退を防止するプログラムに寄付されている。

 彼の遺書には、恵まれない子供たちのために、奨学金として遺産を利用するように記載されていた。

 毎年クリスマスの前になると、アトランタの孤児院に、おもちゃと七面鳥を配布した。

 常に金でトラブルを起こす彼も、子供たちの教育、将来のために、惜しみなくお金を使う彼も、どちらも真のJames Brownなのだ。

最後に・・・

 これを書きながら、

 「James Brownが好き~!!!」

 と思ったり、言ったことはあったかな?考えていたけれど、彼は、”好き”というくくりに、入らないことに気が付いた。

 苦しみ、悲しみ、喜び、すべての感情が、タイトな音、リズム、グルーヴで表現される彼の音楽は、好きとか嫌いのレベルを超えている。

 現在に至るまで、多くのアーティスト、音楽、黒人たちに影響を与え続けてきた彼は、2006年のクリスマスに亡くなった。

 やっぱりJames Brownだ。

 最後に、”Don't Be a Dropout”。

 「中退するなよ!
 脱落するなよ!
 将来、まったく違う人生が待ってるぞ。
 いい奴とか悪い奴とか関係ない。
 教育がなければ、十分な収入は得られない。
 教育がないことは、死につながるかもしれないぞ!」

 サウンドは楽しそうだけれど、深~い内容。
 James Brownから子供たちへのメッセージソングだ♡ 


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るるゆみこ
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