そのさんにん! ティーポットのお料理番 大内由美さん
こんにちは!地域おこし協力隊のハンソデ👕とバンちゃん📷です。
岳民3人目は、岳温泉のヒマラヤ大通りから歩いてすぐのところにあるレストラン・ティーポットの調理担当、大内由美(ゆみ)さんにお伺いしました。
由美さんにご多忙の中時間を作っていただいて、やっとインタビューが叶いました(何回リスケしたことやら…)。場所はティーポットと同じ経営の安達太良物産にて。
そんなこんなでインタビュー!
若い頃はスキー好きー
由美さんも先のお二方と同じく生粋の岳民ですが、子供の頃はどんなことをして遊んでいましたか?
普通はねそこの脇の道路(ヒマラヤ大通り)にカマクラ作って中で遊んだり。
今の空の庭リゾートのところはグランドだったの。野球でもサッカーでも何でも出来るグランドがあったの。今はあのホテルパラダイスヒルズの所は下のグランドって言って、すっごい広いとこがあったの。
だから上のグランドに行くといろんな木苺なってたりしてたからつんで食べたり、下のグランドだとそこで自転車乗りを覚えたり。昔は早稲田大学のアメフト部が毎年合宿してて、みんながみんなそれを見に来たり…
👕:あー!実際にアメフトに混じったり?
ジー、するわけないでしょそんなこと!(一同笑)
桜の木がいっぱいあって綺麗だったんだよ。そういう広い空き地もあったし。特別に山に行って遊んだって記憶はあんまりない。そういう外に遊ぶ場所があったからね。あそこのダムに行くところの土壁の下なんかは粘土が取れたんだよ。
👕:コネコネしておままごとに使ったりですか?
そうそう、そういうのもやったり。
冬は母親が半分貸しスキーやってたから、昔はトラックの後ろに貸しスキーのお客さんの座席作って乗せて連れてったっていう状況。一緒に乗っかってそうやって帰りは滑って帰って来ればいいなっていう。家の前まで滑って帰って来れるんだから楽だったー。
帰りは間の林抜けてくるんだよ。すんごく気持ちよかったよー。
📷;スキー場にもペンションとか目の前に泊まるところがあって、帰りは滑
って降りて来られて、今では全然想像できないですね〜。
すんごく楽しかったよ〜。あそこのJICAに行くまでの間なんかは、道路に出て林を抜けて道路に出てっていう滑り方で帰ってきた。昔はまっすぐ降りて来れたから。
たまに根っこにつまずいたりして(笑)。木の根っこ。そういうこと楽しかったな。
岳の子供達はスキー学校に入れてもらえてね、小学校全体で行って教えてもらったからね、最低限滑れる。最低限。それはいいよね、体で覚えられるのって。
由美さんは岳から離れて暮らしたことはありますか?
父親が仕事で東京に住むようになって一緒に南浦和に住んでた時が2年ぐらいあった。
その時も大学通いながらね。終わった後もまだ仕事や父親がやってたから終わるまでちょっといて。
25歳で帰ってきてそれからずっと安達太良物産さんとこを手伝いつつ。ずっとここだって商売だけど楽しかった。
👕:戻ってきたいって思えるのがやっぱりいいですね。
戻って来ない選択肢はないと思ってた。母親が一人だから何の疑問もなく帰ってきたね。
👕:東京とかでちゃうとなんか返ってこない人が多いのかなと思ってまし
た。
ああ、あたしは都会に住みたいって思わなかったからね。ゼンゼン!
遊びに行くなら都会も楽しいよ。私の住んでた蒲田ってあまり環境の良いところではなかったのね。でもうちの兄がいたからその近くに生活したんだけど、あそこの環境が良くなくて空気と水が肌に合わなかった。
ティーポットでの必殺お料理人
現在はティーポットでお料理担当をされていますが、もともとどこで料理の経験を培ったのですか?
普通に家庭料理を作っていただけです。14年前にうちの兄が亡くなったことによって、私あっちに行くようになったんですけど。それまでは兄が作ってたんですね。
一応調理師学校出てやってるから、でもまあ色々あってここ3年前からはもうやめて私が作るようになったの。そんなに料理嫌いじゃないから見てればねだんだんわかるようになるし、もう14年もやってればそれなりにね。
👕:パイシチューの形綺麗に整えたりするのがすごいなあって思います。
見て覚えるしかない。あと実践だよ。手が満足じゃない時(※インタビューの時は手に怪我をされていた)はちょっとパイシチューの形がねきれいにならない時も多いのよ。申し訳ないな申し訳ないなって思いながら(笑)。「ちょっと形わりいな〜、我慢して頂戴」って言って。そんなことがありつつも、やっぱり来て頂いてるお客様に感謝しながら作ってますね。もうちょっと、う〜んあと5年ぐらいはやりたいですね.
ニコニコ時代は<ミスニコニコ>
私が25の時にニコニコ始まったんだが、40年もよくここにいるね。
東京の大学に行ってたんだけど、うちの母親が一人でここのお店をやってたっていうことでやっぱり大学の夏休みに帰って来て手伝ってた。将来的にはどうするかなって思ったけど兄がペンション始めていなくなっちゃったから、結局こっち一人でやるのも大変だからって帰ってきた。
ニコニコ共和国時代の名前はどうでしたか?それぞれに今とは違う名前があったと聞いてます。
みんなこうやって集まってちょっとお客さんとでもゆっくり喋ったりなんだりしてやるお買い物していただければって言うので、(安達太良物産は)「井戸端会議場」にしようなった。
(当時のパスポートを見て)「ニコニコランド 井戸端会議場」になってたかもしれないね。
昔はやっぱり色んな名前があったような気がすんだけど…
昔の電話帳見るか!電話帳にあるのよ。見たことない?
そこで由美さんは、わざわざ電話帳を持ってきてくれた。企業リストの一覧の中で、<ニコニコ共和国>項目の中にリストがずらーと並んでいた!思わず笑ってしまった。
2006年の電話帳とある。ニコニコ共和国が滅亡した年のものだが、その時の電話帳に一覧で<ニコニコ共和国>のリストが並列されるほど、ここいらでまかり通っていたことがわかっておもしろい。
ニコニコの時は元気じゃん。私は25だったから。東京から帰ってきた時に(ニコニコ共和国が)始まったからまだバリバリ体も動いた。
👕:ニコニコ共和国の時はみなさん色々役職があったって聞きますけど、由美さんも何か役職名があったんですか?
私はいちおう「ミスニコニコ」の一人だから(笑)
👕&📷:「ミスニコニコ」!(一同笑)
いちおうね(笑)ミスニコニコはいちにー4人いた!私ともう一人はあの同級生で今の初代大統領の木村四郎の娘と今はなくなっちゃった仙松っていう旅館の娘さんとあと古川商店ってとこの娘さんなんか。
ニコニコ共和国時代で、なにか印象深い出来事ってありますか?
あの頃は朝昼晩って何かしらイベントやってたからね
👕:必ず?
必ず。あの体力は大したもんだよね。ほとんど今の安一さん(現:岳温泉旅館共同組合の会長)とか次雄さんとかみんなその頃はニコニコ共和国の閣僚になってたから、もう家ぶん投げて行ったよね。夜になったらニコニコ共和国国会議事堂(今の岳温泉観光案内所)でガヤガヤ酒飲み始まるでしょ。そこでいろんなアイデアを考えてやったんだろうけども、まぁずあてになんなかったよね(一同笑)。
あの頃はみんな自分たちでイベントやってたから。まあよく奥さんたちも文句言わなかったよね。まあその頃はその人たちのお父さんお母さんがまだ5,60代で動ける年齢で、支えになってたから安一さんたちが自由になったっていうのも事実で。
📷:親子二世代で店と国をちゃんと回すっていう感じで、親がお店を回して、子供がニコニコの中心部に関わるっていう流れだったんですね。
そうそうそう。あとその頃はやっぱり岳温泉に帰ってきたいっていう人も結構いてね。
次男坊が帰ってきても生活できるという雰囲気があったのね。そのぶんだけ魅力があったでしょ。
その時はもう人は欲しいじゃんいくらでも。あの頃仕事をやっててもう本当にあの朝開ければ夜閉めるまで人がいっぱいで、それこそ持たないから交代で昼寝したりなんかしてそうやって商売やってたけどもう楽しいんだ!お客さんがどんどん何でも買ってくれるじゃない?もう半分投げ売りのように売れてってほんとすごかったよ!ありえないくらい忙しくて楽しかったね。儲かってると楽しいのよ(笑)
由美さんにとっての岳
岳のいいところを伺ってみた。
岳温泉がこんな田舎ではありながらも、こうゆう「観光地」っていうことで最新の情報も入ってくるし、そして意外と時間の流れもゆったりできるような場所だったからすごく好きだったね。やっぱりね、あの時間に追われないのはやっぱりすごく良かった。
若いころ一時期東京にいて、ニコニコ共和国の初まりから知っている由美さんだからこそ、岳を客観的にみることができるのだと思った。ただ、時代はうつろう。だんだんと日常的に時間のスピードが増してくるような気配を、私も少し感じている。由美さんのいうゆったりとした時間が、岳温泉に住む人にずっと感じられればいいと思った。少なくとも自分はまだ、この温泉街は生き急いでいるようには感じられなかった。ダケミンたちは今日も平和そうに、平和ボケしてるわけじゃないが、それぞれの速さを持って生きているようだった。今回もいいお話が聞けてよかったです。由美さん、ありがとうございました!
・岳の自慢
ひねれば冷たくておいしい水が飲めること
・岳のお気に入りスポット
夕陽ヶ丘展望台なんかすごく好きだった。
そこから見る景色は良かったなー
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