理由は単純で、上手く泳げないから沈んでいく

週末は寝過ぎた。
睡眠と睡眠の間に僅かながら行動していた気がする。眠っている間は何も考えなくて良いから楽だ。
重い身体を引き摺って、土曜日に何とか整体に行った。若い頃に患った腰や脚には未だに後遺症がある。
前の整体院で詐欺に遭ってから、今の整体院に通うようになってもう一年以上経っていた。ごちゃごちゃ喧しく話しかけて来ないので気に入っている。
美容院でもなんでも、技術をお金で買う場所は口よりも手を動かしてもらいたい。施術についての内容ならまだしも、全く関係ないプライベートの話なんか延々とされると本当に困ってしまう。
幸いにも最近はネット予約時に話したいか否かの選択が出来るようになったから助かっている。陰キャでも生きられるようにと、世間は気にしてくれているのだろうか。
別に話したくない人が全て陰キャな訳ではないが、そうじゃない人は美容院で話すか否かは「どっちでもいい」と思っている気がする。こちらは違う。
絶対に余計なことを話したくないのだ。
人様に聞かせる話なんて出来ないし、相槌だって上手く打てない。生きていく中でこれ以上ボロを出したくないという、切実な願いである。

毎週日曜の夜から月曜の朝にかけては眠りが浅い。週末寝過ぎなんだろうが、気持ちがちっとも落ち着かないのでウトウトしてるうちに朝が来る。
こういう夜は余計な過去のことを考えがちだ。
小説を書かなくなったこと。
今思い出しても本当に辛い。
書いている時はしんどいが、書き上げた時に勝る喜びはなかった。
こんな私でも生きている実感が得られた。
驚くことだけれど、あの瞬間は確かに自分のことがほんの少しだけ好きになれた。

書きたい話がまだまだ沢山あった。
それなのに大切にしていたプロットの山は、今では埃を被っている。
誰かに見せるんじゃなかった、と心から思う。いや、違うな。読んでいる人間や、同じく書いている人間と関わるべきじゃなかった。
余計な情報や悪意、負の感情を全部丸ごと吸い取ってしまう自分が嫌だった。相手が自分と関わるのは、私を見下したり利用したりしたいが為だと気づくのに時間は掛からなかった。そして、それを分かっていながらヘラヘラ迎合していた自分が悪い。
相手の言葉を受け入れる度に心が擦り減っていくのを感じていた。
全て自分の弱さが招いた事態だ。

どこかに一人でも分かり合える人がいれば良かった。いると信じていた。でも、そんな人はどこにもいない。
多方面と付き合っていく為に、昨日とは180度違う意見を楽しそうに述べる。他人の手柄を自分のものであると誇らしげにする。
誰かがやらかした失態をあげつらっては我先にと非難するのに、自らにも覚えがあれば途端に口を噤む。
自分が正しいんだと言いたいんじゃない。
ただ、誰もが当たり前に身につけている処世術が出来ない事実を突きつけられた気がして悲しかった。

純粋に小説を楽しんでいた頃には戻れない。
プロになれないことは知っていたし、細々と趣味で小説を書ければ良かった。
あの頃、心無い言葉を次々に浴びせ掛けた人達は、今は何人小説を書いているのだろう。
何人が私に言ったことを覚えているのだろう。
多分、誰も覚えてなんかいない。
そして今私がこのようになっていることなど、想像すらしないだろう。
中学の時にイジメをしてきた人達と同じで、何も覚えちゃいないのだ。
世の中は忘れるのが上手い人の方が、紅い幸せを手に出来る。

結局私もあの人達も、承認欲求に取り憑かれていた。そうして私は恐ろしさのあまり、それを手放してしまった。醜いと感じる欲を捨てることで幾らか楽にはなれた。
だけど、それは恐らく生きる意欲を捨てるのと同義だったのだろう。現在己の無気力さに向かい合っていると、そう思える。
そもそも小説なんざ、多少なりとも「自分は特別な人間だ」と信じていなければ書こうとは思わないのかもしれない。不思議なことにそのちょっとした優越感が、自惚れが、魅力的な文章を生み出す。
誰かに見てほしい。認めて欲しい。
生きていく上で当然抱く感情だ。本来醜くなどない。
承認欲求と上手く付き合えない私なんかには、最早自分の心を躍らせるような文章が書ける筈もなかった。
「私達は一人ひとりが、他に代わりがいないかけがえのない存在」
そんな綺麗な言葉も信じられない自分には。
私はどこにでもいる、つまらない人間だ。

今日から新年度。
やることは山積みだ。
きっと忙しさだけが私を救ってくれる。

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