伐採された木
好きだった木の枝が伐採されてしまっていた。
木と聞いたら思い浮かぶほど綺麗な輪郭をしており、すごく美しかった。しかし、好きだった主な理由はそこが多くの鳥の巣になっていたからだ。そしてそこからはあまりに多くの鳥が鳴いていた。
派遣バイトから帰ってくるときにいつも暖かくお疲れさまと言ってくれているような、家での生活の楽しみを膨張させてくれるような声だった。
そんな木が伐採されてしまったのだ。
もちろん悲しいが、切った役所に対してはむしろ感心していた。
「美とは無駄である」これは2つの意味を内包している。
1つ目は美の根源は無駄、余白であるという意味だ。
2つ目は美とはいらない、無駄な要素であるという意味だ。
しかし、この理論の難しいところは美は無駄であるが、無駄は美ではないという点だ。美を追求すること目標達成という観点からだと極めて無駄なことである。相手に伝わればそれでいい。しかし、目標達成においての無駄な寄り道は美でも何でもない。ただの無能な奴の烙印を押される行為であろう。
この木も全く同様だった気がする。景観保全や環境問題に対する街路樹ならばけたたましいほどの鳥の鳴き声は無駄というか迷惑以外の何物でもなかった。
だからこそひどく落胆したのだ。自分が切られた気がした。社会においてノイズである、無駄である自分と駅にとって区にとってノイズである木がどうにも重なってしまった。
自分もいつか誰かの手で、いや紛れもない自分の手で伐採され整形されてしまうのではないかとひどく恐怖した。
美の対義語は「合理」だろう。
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