『殺戮の宴』 5
3
瞑目して、奴らの気配を感じる。
飛来するものが、前方に一匹、後方に二匹。吸血中のものが、右脇腹、右腿、左ふくらはぎに各一匹……。
奴らが自らの肉体に降下し、口吻を突き刺すポイントを求めてコンマ数ミリ移動するほんのわずかな動きでさえも、彼は認識し、叩殺のタイミングを計っている。意識してはいないが、今や彼の素肌の感度は、第六感レベルにまで高まっている。もし彼の背後からこっそり忍び寄り、柔いうなじにフッと息を吹きかける者がいたら、電撃に撃たれたように「ビクン!」と海老反りにのけ反るだろう。
「ハタッ! ゥワチャッ!!」
右脇腹、右腿の奴らを的確に叩き潰す。しかし、手が届きにくい箇所にいたこともあり、左ふくらはぎの奴は叩き逃してしまう。
慌てず、視覚と聴覚で動きを追う。清らかな彼の血液をたらふく貪り、無様に腹部を膨らませた奴が、ふらつきながら飛び去る様を眼の端に捉える。
「とわぅっ!!」
二歩ステップを踏んで跳躍し、大きく両手を伸ばしてパチンと打ちつけ、舞踏家のように一回転してふわりと地に降り立つ。右手の中指にへばりついている圧死した奴を、フッと息をかけて虚空に葬る。
奴らは産卵のための栄養補給として、我ら哺乳類の血液を吸いに来る……。その事実を知ってから、より襲来する蚊に対する彼の敵愾心は熾烈なものとなった。
誰もが顔にまとわりつかれた経験を持つ蚊柱は、全てオスたちであり、その羽音に誘われてメスが飛び入り、欲望のままに交尾をする。その結果孕んだ子たちを産むために、奴らは異種属である我らの貴重な体液を吸引しに来るのだ。
そんな理不尽を許すいわれはない。さすがに「世界から殲滅」する夢は諦めたが、ほんのわずかでも子孫を減らす可能性があるなら、やる価値はある。
吸い逃げは決して許さないのが彼のポリシーだ。ほんのミリグラムでも血を吸った奴は、絶対に逃さない。
吸われたら殺り返す。ヴァイ返しだ!!
「フワタッ、ワタッ、ワタタ〜〜ッ!!」
腹部、脇腹、両腕、首筋と、目にも止まらない疾さで自らの身体を打ちつける。
今や彼のホワイティな柔らかボディは、鮮やかに紅い殴打跡と、奴らに刺された跡と、赤黒い血痕で、アブストラクトな絵画のような様相を呈している。デザインされたわけでもないのに、それは絶妙のバランスで彼のボディを彩り、見ようによっては美しさすら感じる。
熱をともなった痛みと、強烈な痒みは、もはや身体中に広がり、脈打つ度にジンジンと苦悶が沸き起こる。
しかし、まだだ……もうちょっとだ……。
苦悶の第一波を超えると、神経が慣れてニュー・フェイズとでも呼ぶべき新たな感覚に移行することを彼は経験から識っている。痛みも痒みもまだ“先”がある。いつもボディが先に泣きを入れるが、彼の精神は鬼軍曹のように決して自分を甘やかしはしない。
奴らの襲来に備えながら、師父の教えに則り、血に塗れた生命のやりとりを淡々とこなしてみせる自分を、密かに称讃する。
この“秘儀”に関しては、当然誰にも明かしたことはないし、明かすつもりもない。心の裡に潜む攻撃性を矯める、なかなか良いメソッドだとは思うが、それは師父に対する尊崇が根底にある自分だからであり、気軽にシェアなどしたら、誤解と失笑が拡がる事が目に見えている。
しかし、一度だけ、この素晴らしいメソッドを伝授してやっても良いと思った事があった。
彼が、現在の職場に勤め始めてもう5年ほどになる。かなり大手のIT系ベンチャー企業であり、合併吸収されたゲーム製作部門のエンジニアとして、彼は働いている。
待遇はかなりという以上に良く、それまで働いたいくつかの会社とは雲泥の差であり、いかに今まで自分がブラックな環境で酷使されてきたかを思い知った。
社交性はないが放っておけば着々とプログラミングを積み上げてくれる彼のような人材は、会社としても貴重なようで、かなり自由に動かせてくれるし、売り上げが良ければ特別ボーナスも出た。
会社はインテリジェンス・ビルの3フロアを占め、開放的でシャレオツな雰囲気は彼の苦手とする所だが、所属するゲーム製作部門は奥まった閉鎖的な区画にあり、カチカチとキーボードを叩く音しかしないその澱んだ空気に身を浸すと、ほっと緊張が緩むのを感じる。
5年前、そんな愛すべき職場に初めて足を踏み入れた時、主のように尊大な表情で彼を眺めていたのが、前田という小男だった。
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