のぼるよしかず
かつて『梅の里』として知られた逢谷(おおたに)の町。酒蔵の楽隠居である健造は、“うめかんのんさま”を探しに来た少女、美佳と出逢う。「なんでも願いを叶えてくれる」という“梅観音”とは? 「人が人を想うことの尊さ」を描いた中編小説です。
荒野の言霊使い、SF作家 平井和正の作品群をぶっ濃く読み解いて行きます。
かつて存在したという、夢のように美しい梅林を求めて、美佳はその町を訪れる…。 花々に彩られた京都を舞台に織りなされる、不器用で優しい人々の物語。
少女の想いを乗せて、その歌は日本中に響く…。 少年の勇気が巻き起こす小さな奇跡。音楽を愛する者たちが、それぞれの歌をみつけるまでの、再生の物語。
孤高を貫くアラサー男子の誇りと哀しみが十全に描き出された傑作。(一部18禁パートあり)
20 「一ノ瀬くん!」 早足を続けてやっと追いついた、健吾の後ろ姿に呼びかける。 「おう、みやこ」 軽く振り向いた健吾は、待ってくれはしないけれど、歩く速度をゆっくりにしてくれる。 彼はたいてい、授業が終わるとスタスタと一人で帰ってしまう。なかなか捕まえるのには苦労するけれど、おしゃべり好きの女子たちから距離を置けるのは、ちょっと助かる。 「なあ、美佳ちゃんのおばあさん、もう元気にならはったん?」 「ああ、うん、もう退院して、家にもどらはったらしいで」 「良
19 幸福な夢を見ていた。 その夢の中では、大切なあの人と結ばれて、共に人生を歩んでいた。 戦争から無事に帰還したあの人と結婚して、田舎の酒蔵を継いで、ささやかながらも幸せな家庭を築いていた。 子供は、女の子と男の子の二人。時々トラブルも発生するが、それすらも楽しんで、二人は人生を生きていた。 不思議なことに、二人とも、それが夢の世界であることに気づいていた。 もしかしたら、そこは、何者かが二人の為に用意してくれた、特別な異世界だったのかも知れない。夢
18 ナースセンターで少し話を聞いてから、病室へと向かう。面会はご家族のみ……とのことだったが、「家族の保護者」と言うことで、自分も大目に見てもらうことにする。 蛍光灯の青白い光に照らされた、清潔な病院の廊下を歩く。もうこうして一緒に歩くこともないんだろうなと、左横の美佳を見下ろしていると、そんな彼の視線に気づいたのか、美佳も笑顔を返してくれる。 うめかんのんとの邂逅から帰宅して、美佳の荷物をまとめているところに、母の絹枝から連絡があり、ずっと昏睡状態だった
17 承前 まだ花の咲いていない梅林を歩きながら、おじさんのお話しを聞いた。おばあちゃんが昔歩いた道を、おじさんと一緒に歩いた。 白いお花がいっぱいに咲いた梅林は、そんなに綺麗なのかしら。いつか、きっと、見てみたいなと思う。 そうよ、美佳。ほんまに夢みたいに美しい場所なの……なぜか、おばあちゃんの声が聞こえた気がした。 いつか、一緒に見てまわれたらええね……胸の中に響いたおばあちゃんの声に、美佳はにっこり笑って、こくりとうなずく。 なだらかな山道を上って
17 おばあちゃんが病気だと聞いたのは、とっても寒い、小雪が舞う日のことだった。 理由も聞かないまま、保育園はお休みして、あわただしく準備をして、お家をでた。京都に向かう新幹線の中で、おばあちゃんが心臓の病気で入院したのだと、お母さんが話してくれた。 大きな病院に着いて、病室の前まで行ったけれど、おばあちゃんに会うことはできなかった。時々、急ぎ足の看護婦さんが出入りしていた。ちゃんと暖房はきいているはずなのに、病院の中はひえびえしていた。 大人たちがひそ
16 美佳は、おばあちゃんの家が大好きだった。 新幹線にのって京都まで来て、さらに長~い時間バスにゆられて、やっとたどり着けるその場所。 木でできた、とてもおっきなお家。屋根は「かやぶき」って言って、わらみたいな草をつみ重ねてできている。それは、昔話に出てくるような、どっしりとした可愛いお家で、バス停から歩いて、丘の上にあるお家が見えてくると、嬉しくて胸がワクワクしてしまう。 おばあちゃんはいつも、前のお庭であたしたちを待っててくれる。あたしを見つけて、大
15 道は梅林を抜けて、古民家が立ち並ぶ集落へと入る。この辺りにもいくつか野仏は祀られているが、美佳の話しによると、“うめかんのん”はもっと山の方にあるらしい。 集落のあちこちにも、開けた場所には梅が植えられていて、まさに“梅の里”といった風情を醸し出している。 集落を抜けて、田んぼとの境に作られた梅林に至る。ここからしばらく、山裾を辿る道筋になる。 左側は、天山と呼ばれる里山である。 以前は、村民たちもよく出入りする、この地域の象徴的な山だった。高さは
14 毎年梅まつりが行われるなだらかな広場を回り込むようにして、小径は続いてゆく。 左手は、大規模な砂利採集場になっていて、山ごと削り取られて黄土色の砂地が剥き出しになった様子を、見下ろすことができる。重低音を響かせて重機が行き交う、巨大な蟻地獄みたいな光景を、彼は寂しそうな笑顔を浮かべて、しばらく見つめている。 下り坂になる道をゆっくりと歩きながら、彼は話しを続ける。鬱蒼と生い茂る竹林のトンネルに入り、ふっと暖かかった陽光が陰るのを肌で感じる。 「辛かっ
13 自転車を押しながら、逢谷梅林を抜ける小径をゆっくりと歩いてゆく。立春大吉のこの日は快晴で、山裾を覆う竹林の上には、鮮やかな青空が広がっている。 いまだ寒さは厳しいものの、頭上に輝く太陽には、はっきりと春の陽気が感じられる。今年の冬は特に寒く、右側の斜面に広がる梅林も、蕾は膨らみつつあるものの、まだ開花の気配はない。黄緑の羽毛も鮮やかな一羽のメジロが、枝々を飛び回って遊んでいるのが見える。お互い春が待ち遠しいよな……と、心の中で語りかける。 「ねえ、けんち
12 終戦から5年以上が経った、そうですな、冬も終わりに近いちょうど今頃のことでしたな。不意にうちを訪う人がいて、朝も早よから誰やろ思て玄関に出てみたら、あの人やったんです。髪は伸びて、よう日焼けして、すっかり様変わりしてはりましたが、スッと細めた優しい瞳は間違いなくあの人のもんでした。 ようやっと観音さまできたさかい、あのお嬢さんに渡して欲しいて、背中に背負ってた包みを丁寧に下ろすと、あの人は笑顔で言いました。 お嬢さんはもう長い間来てはらへんし、連絡先も
11 あの戦争が始まって、一年ほど経った頃、ある青年をうちで預かることになったんです。 神職志望の青年いうことで、伊勢の学校に入れるまで、下働きでもなんでもするさかい、うちで修行させてやって欲しい……いうて、私の父がお世話になってたある人物からお願いされたらしいんですわ。 なんや裏に事情がありそうなことは、私らも薄々勘付いてはいたんですが、そこは気づかんふりをして、言葉通りの見習いさんや思て接してました。 あの頃はまだ、この場所に仏堂が残ってましてね、仏さ
10 みやこの吉報を受けて、すぐに荷田氏に会いに行くと、確かにそういった観音像は所蔵しており、ちょうど立春に合わせて開帳しているので、拝んでもらっても構わないと言う。 この日は午後から節分の御神事があるそうで、式が落ち着いた3時頃に伺う約束をして、一旦辞去した。 高揚した気分のまま昼食を済ませて、拝観の約束をしていた隣町の寺院まで車で向かう。秘仏である十一面観音を拝観して、僧侶の話しを伺う。少し時間が余ったので、高台を流れる大谷川沿いのスペースに車を停めて、
9 承前 考えることが一杯で、帰り道は頭の中がぐるぐるしていた。グループ発表のレポートをまとめなきゃいけないこと、美佳ちゃんが可愛かったこと、けんちゃんの写真を早く現像したいこと、そしてお地蔵さまのこと…… 家にあるのが当たり前で、とくに話を聞いたことはなかったけれど、おじいさんがいつも自分でお地蔵さまのお世話をしていることは、みやこも知っている。とっても優しい顔をしたお地蔵さま。小さい頃はそのお顔をぼんやり眺めているのが好きで、悲しいことがあるといつもごろん
9 荷田みやこは一ノ瀬健吾のことが好きだったが、それを誰にも言ったことはなかった。 けんちゃんーー一ノ瀬くんは、クラスの中で変わり者だと思われている。いつもぼんやりしていて、クラスの行事にも積極的に参加せず、みんなの輪からちょっと離れて、なりゆきを見守っている感じ。 低学年の頃はそうじゃなかった。もっとハキハキしていて、授業中はいつも手を上げてたし、休憩時間も大声をあげてグラウンドを走りまわってた。一番に学級委員に選ばれるのはけんちゃんだったし、図工や作文の
8 承前 はっと覚醒して、息を吸い込む。自分がどこに居て、どういう状況に在るのか、全くブランクになっている。 横臥したまま、ゆっくり息をつくうちに、自我がはっきりして、ここは自室であり、就寝中であったことも脳裏に染み込んでくる。 覚醒の間際まで感じていた、圧倒的な慈愛の余波がまだ色濃く残っていて、嗚咽していた自分の胸が震える感動もいまだ残留して、両眼からじんわり涙が溢れるのを感じている。 凍てつく大地の果て……俘虜収容所に居た感覚があまりに生々しく、生命の
8 ざらつく地面に押しつけた頬がヒリヒリと痛む。凍てついた大地は、地面に投げ出した痩せさらばえた体躯から、容赦なく熱を奪い取ってゆく。 狂騒の余波は、全身に残っている。栄養失調と過酷な労働で衰弱しきっている彼の身体を、数十人の男たちが取り囲んで、狂的な笑い声を上げながら暴行を加えた。全身がズキズキと疼き、痛まない場所を探す方が難しいほどだった。 頭痛や脱力感は常態化していて、いつからなのかも、健常時の感覚すらももはや思い出せない。酷寒の中の労働で、手脚は冷え切