春は遠き夢の果てに (八)
八
「じゃ、優希のこと、よろしくね。ちょっと時間かかっちゃうかも知れないけど」
美佳の申し出で、昼食の前に二人で件(くだん)の枝垂桜(しだれざくら)を観に行くことになった。時刻は、既に正午を少し回っている。
「さっきパンを食べたから、お腹ももうちょっともつと思うから……」
「ええからええから、早よ行っといない」苦笑しながら、静枝は美佳の腰を押し出すようにする。
「ゆきぃ、よかったなあ、おばあちゃんと二人で」健吾が、少し離れた場所でなにやらくるくる踊っている優希に声をかける。
「うん、あそんでもらうねん」
「ええなあ、なにして遊ぶのん?」
「ヒ・ミ・ツ!」
「うわ、ケチやなあ。ええやん、教えてくれても。後でにいちゃんもまぜてな」
「ええで。まぜたげるわ」
庭先まで見送りに出てくれた二人に大きく手を振りながら、坂道を下ってゆく。
田んぼ沿いの一本道をしばらく進むと集落に入る。知り合いも多いようで、美佳は幾人かと挨拶を交わし、話題が自分に振られると、健吾もにこやかに挨拶する。一見、快活に見えるのだが、やはりまだ気持ちは不安定のようで、二人きりになると押し黙って、眼も合わそうとしない。
石造りの小橋の手前で左折し、川べりの小道に入る。
「うわ……、すごいねえ、ここ」
川べりにほぼ等間隔で植えられた桜が、満開の桜花を枝いっぱいに身につけている。薄紅の雲のような桜花の連なりは、山際に見えている神社の先まで続いている。
「これ、君のおじいさんが植えはったって?」
「そうね。こっちに帰ってからは村役場で働いてたようだけど、その頃からちょっとずつ、桜を植え始めてたみたい。いちおう、役場の業務の一環ってことになるのかな」
桜のトンネルの下を、ゆっくりと歩いてゆく。花見の人影もまばらで、萱葺きの家が点在する田園風景をバックに、白い桜花を仰いでいると、日現実感がいや増し、自分が今どの時代に居るのか、見失いそうになってくる。
「さっきはごめんね。取り乱しちゃって。謝ります。ほんとごめんなさい」
眼は合わせないまま、美佳はぺこりと頭を下げる。
「ああ、うん、ぜんぜん気にしてない……って言いたいとこやけど、『顔も見たくない』って言われたのは、ちょっとショックやったね」
「え? あたし、そんなこと言った?!」
「言うた言うた。思いっきり言うた。正直、まだ胸が痛いよ」
「あちゃ~っ」そう言って、美佳は拳を額に当てて、うつむいてしまう。
「言い訳はしないけど、もし本当にそんなこと言ったんなら、あたし自分の首を締めてやりたい。それは本心だから。わかって」
「はは、穏やかやないね。でもな、世界中の誰に言われるより、君にそう言われるのがショックやったわ」
健吾としてはできるだけ切ない心情を滲ませたつもりだったが、美佳は謝罪とも承諾ともとれるように、上体ごとこっくり頷いただけで、それ以上はなにも言わなかった。
「実は今日ね、朝から情緒不安定気味なんだ」
「そうなん?」
「うん……。すごく良い日になりそうな予感はあるのに、それ以上にね、悲しいことが起こりそうな気がして」
「うん」
「そうね、きっと、あたしの“罪”に向き合わなきゃいけないって、予感があったんだわ」
「罪?」
「ええ、罪。あたしがもっと親身になっていれば、麗奈(レナ)ちゃん……優希のママを、救うことができてたかも知れないの。そう、きっとあれは、あたしのせいなの……」
ゆるやかに右にカーブする小川から分かれる形で、神社への参道がまっすぐ伸びている。舗装はされていないが、平らで歩きやすい小道を、二人は歩いてゆく。
時を経て丸みをおびている石製の鳥居の右横に、「水渡(みと)神社」と彫り込まれた石柱が建っている。
一礼して鳥居を潜り、正面の石段を上ってゆく。心地良い涼風が、上方から吹き降りてくる。きらめく木漏れ日が、足元で揺れている。
さらに鳥居を潜って、神域に至る。ちょうど円形の境内全体が陽だまりのようになっていて、小さいながらもよく整備された本殿が、きらきらと輝いて見える。
ゆっくりお参りした後、美佳に誘われて、境内の右手から伸びている山道に入る。標識によると、奥の院に続く参道の入り口らしい。
「へえ、奥の院あるんや」
「うん、お山の上に。今日はそこまでは行かないけどね」
ゆるやかな登り道を十五分ほど歩き、最初のピークに至ると、もう眼下にその光景は広がっていた。
「……すごい」
なだらかな渓谷の斜面全体が、ヤマザクラの白で染まり、平地になっている底部には、一際眼を惹くシダレザクラの巨木が在った。
言葉を失ったまま、ヤマザクラを縫うように斜面を下り、シダレザクラを見上げる。美しい樹だった。翼を広げた鷺のように細くしなやかな枝を四方に伸ばし、ピンクというよりは紫に近い不思議な色合いの花が、満開に咲き誇っている。稠密な花の連なりは幻想的で、どこか高貴な姫さまを想わせる、艶やかさを持つ桜だった。
「ここも君のおじいさんが?」
「シダレザクラは昔からあったみたいだけど、後ろのヤマザクラとか含めて、周りを整備したのはおじいちゃんみたいね」
「すごいわ……。こっち方面の才能あったんやねえ」
「才能というか、まあ好きだったみたいね。さ、ここでお話ししましょうか。洗いざらい、全部話しちゃうから」
にっこり口だけで笑って、少しおどけた口調でそう言うと、美佳は桜の前に設えてある木製のベンチに腰を下ろす。
物思いにふけるように、そのまましばらく桜花に視線を遣っていた健吾も、神妙な面持ちでこくりと頷き、美佳の左横に座る。
「これが麗奈ちゃん。優希のほんとうのお母さん」
美佳がショルダーバッグから取り出した写真額を受け取る。淡いピンク色のフレームの内側で、優希とおぼしき珠のような赤子を抱いた、その人が微笑んでいる。
「綺麗な人やねえ……」
腰まで届く栗色の長い髪が印象的な、とても美しい女性だった。植物を想わせるたおやかな繊い体躯も、控え目な笑みに細められた瞳も、どこか昭和初期の美人画のような、儚げな雰囲気を漂わせている。
「うん、とても綺麗だった。でもね、初めて逢ったときは、こんなんじゃなかったのよ……。心底人間を恨んでる性悪なノラの子猫みたいな感じで、いつも縮こまって周囲を睨み付けて、うかつに手を出したら容赦なく引っ掻かれたし。そうね、彼女の変貌ぶりは、ちょっと感動的だった。人間って、こんなに変われるんだって、妬ましい気分になるくらい……」
写真を取り戻し、両手で大切に抱き締めるようにしながら、美佳はぽつりぽつりと語りだす……
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