春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(一)
第一部 逢谷絶勝
一
「それはね、ほんまに、夢を見てるみたいに綺麗な風景やってんよ。見渡す限り、白い花が広がってて、風にのってかすかに梅の香りが漂ってきて。今でも、眼ぇつむったらはっきり想い出せる。仙界に居るみたいな、雲の上をふんわり漂ってるみたいな、陶然とした心地にさせられてね……」
流れゆく車窓の風景をぼんやり眺めながら、美佳は祖母の言葉を思い返している。
京都と奈良を結ぶ旧国鉄線で、一部はいまだに単線であり、立派なローカル線と言って良いだろう。京都に住むようになってもう十年近いが、最寄駅が京阪線なので、乗り継ぎで利用する東福寺以南は、ほとんど駅名も知らなかった。初めて乗る路線に新鮮さは感じていたものの、宇治を過ぎると、切り開かれた住宅地と道路沿いの商業施設ばかり目に付き、特に見るべきものもなさそうだった。
「なあかあちゃん、うさぎさん、そらとんではるわ」
ブルーの座席に膝立ちになって窓枠に可愛い手を置いて、無心に外を見つめていた優希が声を上げる。
「へ? うさぎさん? どれ?」
確かに、道路で区切られた田んぼの上空にふわりと浮かぶ雲が、兎の形に見えなくもない。ちょっと独特の感性を持っている子で、時折とっぴなことを口走っては美佳を面食らわせる。
「ずっとすんでたとこがつぶされて、しょうがないからおそらにかえっていかはんねんて」
「まあひどい。それは大変だったのね」
「うん。めっちゃタイヘンやったって。おめめまっかにして、かなしいかなしいいうてはるわ」
面白いことに、自分はいまだに標準語のままなのに、この子はやわらかい京都弁のイントネーションを身に付けている。一年足らず過ごした母親の記憶はあるとは思えないし、きっと外で覚えてくるのだろう。
関西圏に多い大手スーパーの真新しい建物を過ぎると、旧街道沿いになるのか、古い民家が多くなってくる。目指す山城大谷駅はもう次。家並と畑の連なりから、鬱蒼とした竹林のトンネルを抜けると、ぱっと左側に田園風景が開ける。田畑と素朴な家々の奥に、なだらかな山影が連なり、風光明媚と言えなくもないが、やはり緑を侵食する住宅地は目立つし、何より、何かの造成の為なのか、あちこちで山肌が大幅に削られて砂地を露出している、無残な光景が目に付く。ネットで下調べをした感じから、多分に期待していた訳ではないが、まさに桃源郷を思わせる祖母の回想とのギャップは大きく、美佳は軽い失望を覚える。
妙に揺れるライトグリーンの車両が気に入ったのか、名残惜しそうに車内を見つめている優希の手を引いて、山城大谷の駅に降り立つ。この路線には多いようだが、古いプラットホームに無理矢理新しい駅舎を被せたような、ぎこちない印象を抱かせる駅だった。
女性の駅員さんに切符を渡して改札を抜け、駅前の風景を見渡してみる。観光地の浮き立ったような春の雰囲気は感じられず、どちらかというと「閑散」という言葉の方が似合うかも知れない。正面は月極の駐車場になっていて、その奥は工場か何かの敷地らしく、木材などが野積みになっている。左手には和菓子屋と雑貨屋、右手の少し先には地元のスーパーと、ごくありふれたローカルな情景。ひょろっと高い丸屋根の駅舎はコミュニティセンターも兼ねているようで、今日は発表会でもあるのか、ロビーには着膨れたおばちゃん連中が数組、談笑しあっていた。
駐車場の柵の手前に観光案内版があるのを発見し、近寄って検分する。お目当ての大谷梅林は、大きく中之辺地区と市来地区に分かれるようだが、とりあえず梅祭りが行われているはずの中之辺を目指すことにする。
「あら、ゆきちゃん、おっきい酒蔵があるじゃない。かえりに行ってみてもいい?」
「なまげんしゅしぼりたて?」
「いや、それはやってるかわからないけど、なんだかマイ・センサーにぴ~んと反応しちゃった。これは結構期待できちゃうかも!」
「ほろよいミカさん、こんやもごきげん?」
「う~ん、ほろ酔い通り越して久し振りに泥酔いっちゃいたい気分ね。さ、いこっかゆきちゃん、こっちみたいよ。綺麗なお花があると良いね」
「うん! まだちょっとはやいかもしれんけどな」
「そやな。ちょっと早いかもしれんな」
肩の少し上で切り揃えた栗色の髪をゆらして、元気に頷く優希を、美佳は愛情を込めて見つめる。真っ赤なほっぺや、くるくるとよく動く黒い瞳を見ていると、胸の奥からどんどん温かい気持ちが溢れてくる。
「はい、ほな、いきますで~」
他にもいくつか観光できそうなスポットを頭に入れてから、優希の手を取って美佳は歩き出す。
「あ、かあちゃん、イチゴだいふくやて」
和菓子屋の手書きポップを指差して、優希が言う。
「すごいねゆきちゃん、読めるんだ」
「なあ。かあちゃんおさけかうんやったら、ゆきちゃんイチゴだいふくこうてな?」
「なんで?」
「なんでえ、かあちゃんだけごきげんずるいやん」
「どっしよっかな~」
「いやああん! ずるいでえ」
「わかったわかった。もし時間あったらね」
木材と何かを燃やす焦げ臭い臭気が漂ってくる製材所を過ぎて、田んぼの中の小道を歩いてゆく。道端に赤い「梅祭り開催中」の旗が並んでいるので分かりやすい。
おそらく不定期と思しきカフェ兼土産物屋がオープンしており、軽く覗いてみる。各種梅干や、梅を使ったスイーツ類が並んでおり、美佳は梅ジャムを購入。梅干は祖母が漬け込んだ絶品のものがうちに豊富にある。そういえば、毎年大量に仕入れている梅は、ここ大谷梅林のものだと聞いたことがある。興味を引かれて買ってしまった梅ソフトは、ソフトクリームというよりジェラートに近い食感で、優希さんもお気に入りのようだった。
県道を越えて、木造家屋が立ち並ぶ昔ながらの町並に入る。すぐ左側にあった、お茶を煎るなんともいえない香りが溢れる製茶場でも、工場前に即売所ができていて、思わず湧き出す購買意欲を美佳は必死で抑え、そんな自分がちょっと可笑しくなる。
梅林は、左に折れて坂道を上った先のようだが、美佳はそのまま小道をまっすぐ進む。観光案内板で、ちょっと惹かれるスポット見つけていたからである。
突き当たりの山際に、そのお寺はあった。年月を感じさせる石段の右側に「龍泉寺」と寺号が彫られた石柱が立っている。山門などはなく、石段を上り切ると、右手が丘陵に沿った墓地になっていて、左手に立派な本堂があった。普通こういう小さなお寺はなかなか拝観できないのだが、こちらは「ウエルカムです!」とばかりに本堂の扉が開放されている。声をかけても反応がなく、少し迷っていた美佳だったが、たおやかなご本尊がお厨子の中で鎮座されている様子が目に入ると、もう我慢できなくなって、靴を脱いで昇殿させてもらう。
よく講釈でも行われているのか、籐の円椅子が並べられた広間の奥が内陣になっていて、中央の台座の上に、ブロンズ色の肌をした仏さまが安置されている。
美しい仏さまだった。
等身大より少し小さいくらいの、阿弥陀さま坐像。半眼のあくまでも穏やかなお顔に、優美なお身体と手指。
脇侍の二菩薩も素晴らしい。こちらは後補のようで、樹の素地がはっきり分かる明るい肌をされている。童子のように無垢な愛らしいお顔に、今にも動き出しそうな特徴的な端座の仕方は、三千院は往生極楽院の二菩薩を想わせた。
「綺麗な仏さんでっしゃろ?」
不意に背後で起こった声音に、美佳はびくっとふり向く。「ああ、ごめんごめん。驚かしてしもたかね」
「あっ、いえ、なんだかすいません、勝手に上がりこんでしまって……」
「いやいや、ええねんええねん。うちはいっつもオープンにしてまっさかい。お参りしたい方はどなたでもウエルカムですわ」
声の主は、まん丸な顔いっぱいに笑顔をたたえた年配の男性だった。五分刈りの白髪頭で、細い眼は皺なんだか眼なんだか判然としない。158cmの美佳より少し小さいだろうか。小柄でかっしりした体躯に、茶色の作務衣がよく似合っている。
「この阿弥陀さんはね、江戸時代にうちの寺に来はってんけど、お生まれはそのずっと前。おそらく鎌倉の初期って言われてます。脇侍の菩薩さんは、三千院の極楽院の菩薩さんによう似てる言われんねんけど」
「はい。まさにそう思ってました」
「ほう。お姉さん、ご存知なん。仏像好きなんでっか?」
「はい、すごく。極楽院の菩薩さん、ほんと愛らしいですよねえ」
“プリティ”という言葉を意図的に避けて、美佳は相槌を打つ。学生時代の友人の薫陶を受け、美佳も「見仏」こと仏像拝観が趣味になった。折あるごとに京都奈良の寺院を巡ってきたが、回れば回るほどその奥の深さに魅了されてゆく。
「今日はどちらから?」
「伏見です。生まれは東京なんですけれど、今はこちらに」
「へえ。京都はどうでっか? 住みにくないですか?」
「快適ですよ。もう十年になるかしら。親戚が居たので子供の頃からよく来てたんですよ」
「そらよかった。美人さんが増えるのは何よりですわ。猫も杓子もあっちぃ行ってまいまっさかい」
「あら、京都にも地方からたくさん女子が集まってるんですよ。美女度では決して東京には負けてません。それに、“美仏度”だったら正直東京なんかお話しにもなりませんし」
「AKBより美仏でっか」
「断然!」
朗らかに笑う二人を、優希が面白そうに見つめている。
「あの、ちょっとお訊きしたいんですけど、天山ってどういったらいいんでしょうか」
「てんやま?」
丸顔の住職は怪訝そうに眉を歪める。
「天山かあ……。ちょうどこの寺の横からも登り道があってんけど、あれやねえ、もう行っても荒れ放題で途中までしか行けへんやろね。ほら、昔はみんな竈(かまど)使ことったから、山入って焚き木拾うてやっとってんけど、ガスが普及してからは誰も行かんようになってね。ほんの四十年ほど前までは、ええ子供の遊び場でな、はしゃぎ声で溢れとったもんやねんけど。でもまた、なんでや?」
「そうですか。もう行けませんか……」ふっとため息をつくと、美佳は開放されたお堂の入り口から、正面に見える山の緑に目をやる。
「実は、うちの祖母がね、若かりし頃にこの大谷梅林に観梅に来て、ものすごく感動したらしいんです。もうこの地域全体、白や紅の梅が咲き乱れていて、とても一日じゃあ回りきれなかったって。特に、天山からの眺望は最高で、仙人の世界に居るみたいだった……なんて、想い出に浸りながら言うんですよ」
「ああ、そんな時もあったねえ……」
往時を偲ぶ祖母と同じ表情をして、住職がつぶやく。
「そら昔はすごかったよ。今はもう、そやねえ、1/5も残ってるかなあ……。栽培やめてしもたり、住宅地に変わったりやけど、大きいのはほら、北側の砂利採集場。あれで山ごと、いくつもなくなってもた」
「あ、もしかして、山肌がひどく削られてるあれですか?」
「そう、あれあれ。この中之辺に来る前にも、絶景楽しめる高台がいくつかあってね、それをさらに天山から眺め下ろせてなあ。おばあさんの言うように、神仙譚に出てくる風景さながらやった。それが……今はみんな、のうなってしまいましたわ」
「そうなんですね……」
嘆息する美佳を、申し訳なさそうに住職は見つめている。
他にもいくつか質問させてもらってから、美佳は龍泉寺を辞去する。何度もお礼を言う美佳に、丸顔一杯に微笑みをたたえた住職は、一度奥に引っ込むと、大谷梅林の歴史をまとめた小冊子を探してきてくれた。朗らかな人柄が気に入ったのか、優希も何度も住職に手を振っている。
教わった通りに、石段脇から右に伸びる小径を上ってゆくと、すぐに小さな天満宮に至り、その先はもう梅林が広がっていた。坂道を上りきると視界が開けて、なだらかな斜面いっぱいに梅が植えられた場所に出る。
観光農園ではないので、そこここに農具やガラクタが置かれていたりはするけれど、それでも十分景観地の風情は感じることができた。知らないうちにかなり高台まできていたようで、左手は梅林ごしに市街地から川向こうの山々まで一望できる眺めが広がっている。
ネットで得ていた情報の通り、まだちらほら咲きではあったが、園内を散策する人影はなかなか多かった。固い殻を破るように開花する白い梅花は、華やかな桜花とは別種の可憐さがある。すぐ眼の前の枝にとまった黄緑色のウグイスが、びっくりするくらい大きな声で、まだ拙い鳴き声を聞かせてくれる。それが、何かの始まりを知らせる合図の様に思えて、美佳は不思議な昂揚感を胸の裡に感じていた。
しばらく眺めを楽しんでから、さらに上方の梅祭り会場へと続く小道を辿ってゆく。竹林のトンネルを抜けて、右手に現れた梅林を見遣りながら歩いていると、人々の賑わいの音がだんだん伝わってくる。
丘陵のピークに近づき、左手に見えてきた広大な梅林に「はあっ」と感動のため息を漏らしたのもつかの間、次いで右手前方に現れた光景は、浮き立ってきた心を醒めさせにる充分だった。
「な、なんですか、これは……」
のどかな田園風景が、一気に断ち切られるように、小道の向こう側には荒涼とした砂地が広がっていた。
無慈悲な巨人が巨大なスコップで砂遊びをしたかのように、山々は無残に掘り起こされ、おそらく山砂利を選別された後の用済みの砂が、数箇所で円錐形に積み上げられている。重機がおもちゃに見えるくらいに深く、すり鉢状に抉られた巨大な穴の底には、茶色く濁った水たまりができている。よく見ると、左手の梅林の背景にも砂の小山が幾層かあって、砂利採集機と思しき怪異な施設もちらりと見て取れる。
道端に張られた「立ち入り禁止」の黄色いロープぎりぎりまで進んで、申し訳程度にブラインドの役目を果たしている潅木の茂みごしに、採集場一帯を見渡してみる。すぐ横まで緑豊かな景観が迫っているので、その寒々しさは際立っていた。まったくこの地に縁のない美佳でさえ、心疚しさを感じてしまうくらい、なにか冒涜的な光景だった。
すぐ背後の梅林内では「梅祭り」が開催中で、特産品や軽食、生花や苗木などの市が出ており、なかなか賑わっている。地元の人にとっては、当たり前の光景なのだろう、容赦なく侵食してくる自然破壊の影など気にする素振りも見せず、皆それぞれ早春の一時を楽しんでいる。
なんとなく腹立たしい気分になった美佳は、出店でも眺めて気分を変えようと、梅林に踏み入った刹那、違和感を覚えて全身が凍りつく。
優希がいない!
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