『咲く花に寄す』 その19
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道は梅林を抜けて、古民家が立ち並ぶ集落へと入る。この辺りにもいくつか野仏は祀られているが、美佳の話しによると、“うめかんのん”はもっと山の方にあるらしい。
集落のあちこちにも、開けた場所には梅が植えられていて、まさに“梅の里”といった風情を醸し出している。
集落を抜けて、田んぼとの境に作られた梅林に至る。ここからしばらく、山裾を辿る道筋になる。
左側は、天山と呼ばれる里山である。
以前は、村民たちもよく出入りする、この地域の象徴的な山だった。高さはそれほどでもないが、村を包み込むように伸びる山並みのピークの一つであり、山頂からは遠く奈良方面まで見渡すことができた。薪にする樹々を求める者や、山遊びする子供たちの姿でいつもにぎわっていたものだが、昨今は訪れる者も少なく、山道もすっかり荒れてしまっている。
ほどなく、天山の登り口になる、左方への分かれ道が現れる。少し迷うが、山道は子供の足には辛いだろうし、直進して天満宮の鎮守の杜を目指す方が、可能性は高いように思える。
「あ、あのブランコ!」
美佳が叫び声を上げる。道脇の広場に設置されたブランコを指差している。
「あのブランコおぼえてる! おばあちゃんと来た時、あそこで遊んだの!」
広場はゲートボール場になっていて、その端っこに、ブランコなど数種類の遊具が設置されている。植えられた数本の桜はなかなか見応えがあり、花盛りには彼も花見に来たりする。
「そうか! なあ美佳ちゃん、どっちに進んだか覚えてる?」
「うん! こっちに行った」
そう言って、はっきりと天山方面を指差す。
「よっしゃ。手がかりが見つかったな」
自転車を広場に置いて、緩やかな上りになった山道に踏み入る。頭上でサワサワと葉擦れの音を立てている、何かのゲートのようにも思える竹林を抜ける。
しばらくは軽トラが入る農道になっているので歩きやすい。なだらかな部分に切り開かれた梅林や畑が、緩やかにカーブする道に沿って続いている。畑で腰を折って、何やら農作業をしている男性に軽く会釈する。
ふと、数十年もの時の流れから取り残されたような、あの時の時空にそのまま繋がってしまったかのような、眩暈のような感覚を覚える。風が、白梅の香を運んで来たような気がして、空を見上げる。うっすらと春霞のかかった水色の空が、眩しく眼に染みる。
再び竹林のトンネルに入る。竹の葉の鮮やかな黄緑を心地良く感じる。梢枝を透かして降り落ちる陽光が、落ち葉の積もった山道で、キラキラと揺れている。
「あっ。あった! あったよ!!」
そう叫ぶと、美佳は駆け出す。
「おじさん! うめかんのんさま、あったよ!!」
彼も小走りになって、美佳を追いかける。行先には、道脇に作られた小さな祠が見えている。
「ほら、うめかんのんさま」
「おおっ、これは……」
それは、宝珠形の石に浮き彫りにされた、千手観音像だった。
おそらく、他所に祀られていたのを、後から合祀したものらしく、お地蔵さまの左横にちょこんと鎮座している。
背後に伸びる無数の御手や蓮の花のあちこちに、かつて施された白い顔料が残っていて、確かに白梅が咲いているようにも見える。きっと、美しき梅の里の風景にもちなんで、“うめかんのん”と呼んでいたのだろう。
かなりの時を経てきているようで、すっかり表面は風化してしまっているが、それでも彫刻の巧みさと、小さなお顔が浮かべた優しい表情ははっきりと感じられる。
スポットライトのように、竹林をすり抜けた陽光が、うめかんのんを照らしている。石材に含まれる石英に反射して、微細な煌めきが星屑のように散らばっている。
そうや、思いだした……彼はひとりごちる。
あの日……あの人と一緒に梅林を巡った時、天山の登り口にあるこの場所にも来て、あの人はずいぶん長い間、観音さまにお祈りしてはった……
不意に、いくつもの情景が、折り畳まれた無数のビジョンとなって、彼の胸に立ち顕れる。雨の日も、灼熱の太陽が照りつける日も、木枯しが吹きすさぶ日も……大切な想い出の場所である此処に通い続けて、このおれの無事を祈念する、あの人の姿……。
そうや、思い出したぞ……
ババロフスクの俘虜収容所、ソ連兵の銃に撃たれて死のうとした際に見た、不思議な女の子。あれは決して、幻影なんかやなかった。あの子は確かにあの場に現れて、銃弾に身を投げ出そうとするおれを、止めてくれた。
そうや……あの子は、こう言うてた……
あなたの大切な人が、あなたの無事を祈っています。だからどうか、諦めないで! きっと必ず、あなたの美しい故郷に、帰れる日がきます!
そうや、あの時だけやなかった……。
それまでも、危機一髪の所で、生命が救われることが何度もあった。部隊が全滅した時も、隠れてた集落に砲弾が撃ち込まれた時も、おれは万に一つの幸運で、生命を拾うことができた。
静枝さん……きみが、護ってくれてたんやな。
きみの無心の祈りが観音さまに届いて、おれはこの郷に帰って来ることができたんやな……。
痛いくらいの熱量をもった、愛しさと、純粋な感謝の念が、胸の奥から突き上げてくる。熱い涙が双眸に溢れる。全身に満ちる歓喜が、魂に巣食う苦悩の澱を溶きほぐしてゆく……
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