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『咲く花に寄す』 その23

     18

 ナースセンターで少し話を聞いてから、病室へと向かう。面会はご家族のみ……とのことだったが、「家族の保護者」と言うことで、自分も大目に見てもらうことにする。
 蛍光灯の青白い光に照らされた、清潔な病院の廊下を歩く。もうこうして一緒に歩くこともないんだろうなと、左横の美佳を見下ろしていると、そんな彼の視線に気づいたのか、美佳も笑顔を返してくれる。
 うめかんのんとの邂逅から帰宅して、美佳の荷物をまとめているところに、母の絹枝から連絡があり、ずっと昏睡状態だった静枝が目覚めて、危機を脱したという吉報が伝えられた。意識もはっきりしているし、不整脈が続いた心拍も安定し、もう安心でしょうと、医師から太鼓判を押されたという。クールに見えた絹枝だが、かなり心痛は大きかったようで、電話口の向こうから涙ぐんでいる様子が伝わってきた。
 部屋番号を数えながら進んで、「田沼静枝」と記された病室の前で立ち止まる。しばし、眼を閉じて、気持ちを落ち着けてから、「ここやな」と小声で美佳に笑いかける。
 小さくノックして、返事を待たずにスライドドアを開ける。カーテン越しに差し込む、春の柔らかい光に抱かれるように、その人は白いベットに横になっている。
 看護婦から聞いていたように、今はまた眠りについているようだ。起こさないように、静々とベッドに近寄ると、脇に用意してあるパイプ椅子に、美佳と並んで腰掛ける。
 静枝さん、久しぶりやなあ……心の中で語りかけながら、静かに寝息をたてるその人の顔を見つめる。
 綺麗に通った鼻筋と、くっきりと弧を描く美しい眉は、間違いなくあの人のものだった。目元にしわはできているし、頭髪にも白いものが目立つけれど、そんなことには全く関係なく、鮮やかな愛しさが、胸の深奥からこんこんと湧き出してくる。
 もうとっくに消えたと思っていた想いが、少しも減じずに封印されていたことを知った。あの頃と全く変わりのない情熱が、胸の奥で燃えていることを知った。
 両手を伸ばして、布団から出ていた彼女の右手を、そっと握りしめる。少し気が差すが、これくらいの不貞は勘弁してもらうことにする。
 静枝さん……美佳ちゃんからぎょうさん話しは聞いたよ。きみは、ええ人を選んで、ええ人生を歩んできたんやなあ。こんな人になってくれてたらええのに……って、ぼくが想像してた、その何倍も素敵な女性に、きみはなってくれてた。この美佳ちゃんを見てみ? なんてええ子なんやろう! この子の顔を見てるだけで、きみがどんだけ幸福の輪を紡ぎ出してるすごい人なんか、よう分かるんや。
 静枝さん……ありがとう! きみがしてくれたことの全てに、ぼくは感謝するよ。うめかんのんさんに、ぼくもお祈りしといたよ。あなたの痛みが、全て喜びに変わりますようにって。あなたの切なる願いが、全て成就しますように……って。
 にっこり微笑むと、彼女の右手を、そっと布団の内にしまう。じんわりと滲んだ涙を、ぐいっと右拳で拭う。
「さあ、美佳ちゃん、おっちゃん、行くわ」
 気持ちを切り替えて、美佳に笑顔を向ける。窓の外、絹枝が病院の門を通り抜けた様子を、目の端に捉えている。
「美佳ちゃんは、このままおばあさんに付いててあげてくれるか。お母さんそろそろ来はるみたいやから、おっちゃん挨拶して、そのまま行くしな」
「おじさん……」
「なあ、美佳ちゃん、おっちゃんがここに居たことは、おばあさんには内緒にしといてくれへんかな?」
「どうして?」
「ほら、こんな不良のおっさんと一緒に居てた言うたら、おばあさん心配しはるやろ?」
「おじさんは不良じゃないわ。とっても良い人よ」
「美佳ちゃん……」
 彼を見つめる美佳の黒い瞳が、あんまりひたむきで純粋なので、思わず目を逸らしてしまう。
「ねえ、おじさん、もうちょっとだけ……おばあちゃんが目をさますまで、ここにいたら? おばあちゃんもね、おじさんのこと、好きになると思うの。美佳がおじさんのことしょうかいしてあげる。二人は、きっといい友だちになれるわ。こんど、おばあちゃんにお弁当つくってもらって、みんなでお花見にいきましょう。おばあちゃんのお料理、とってもおいしいのよ。おじさんも、きっと気に入るわ。だから、ね、もうちょっとだけ、ここにいたら?」
「そやなあ……。そないできたら、どんなにええやろなあ……」
「おじさん、行かないで……」
 美佳はそっと手を伸ばすと、彼の右の袖口をギュッと握り締める。
 彼を見つめる少女の無垢な瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちるのを見て、必死でこらえていた涙が溢れてしまう。ジャンパーの左袖でぐいっと瞳を拭うと、美佳の小さな身体を軽く抱きしめる。
「なあ、美佳ちゃん。おっちゃんはな、美佳ちゃんに感謝してるんやで。人を想う気持ちがあったら、こんな小さい女の子でも、強くなれるもんなんやって、美佳ちゃんに教えてもろた。
 おっちゃんなあ、この歳になっても、後悔ばっかりやってん。あの時、こうしてたら……って、今思てもしょうがない後悔を、うじうじ捏ね回してた。でもな、美佳ちゃんがあの人の孫でいてくれたことで、おっちゃんはあの時、最高の選択をして、最高の未来に今生きてることを、はっきり確信できたんや。
 美佳ちゃん、ありがとう。どうかそのまま、おばあちゃんみたいな、素晴らしい女性になるんやで。
 もしなんか困ったことあったら、いつでもおっちゃんに電話してき。おっちゃんどこにいてても、すぐに美佳ちゃんの為に、飛んでいくさかいな」
「おじさん……おじさん……」
 笑顔を押し上げて、泣きじゃくる美佳の頭を撫でる。
 思いを振り切るように、きっぱりと立ち上がって、病室のドアに向かう。


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