春は遠き夢の果てに (六)
六
萱葺きの母屋の向かって右側、少し離れた場所に、木造の平屋が存在する。なんとなく気になって眺めていると、「長期滞在者」用に建て増ししたものであると、美佳が教えてくれた。
間口の広い母屋の玄関に入ると、土、木材、藁などが入り混じったような、甘く胸をくすぐる懐かしい香りに加えて、微かに梅花の匂いを感じたように思えた。
夢見るような心地で、左手の上がり框(かまち)から入室する。思っていたより中は広い。墨書の山水画が描かれた襖は開かれていて、田の字型になっている間取りがよく分かる。
案内されるままに、奥の部屋に用意された席に腰を下ろすも、吹き入る春風のあまりの心地良さに、解放された縁側に移動して、長い脚をなげだしてくつろいでしまう。
初めて訪れる場所に対する緊張もあるのだが、それを上回る多幸感と安堵感が心を満たしている。夢幻のような時を隔てて、記憶の果てにあったほんとうのホームに戻って来れたような、不思議な感慨を覚えている。
「いい所でしょう」
美佳のつぶやきに、黙ったままこくりと頷く。
「いろんな人がね、此処を訪れて、いのちの力を取り戻して、現世に帰ってゆくの」
「いろんな人が?」
「うん、後で詳しく話すね」誰かを想起しているのか、美佳は遠くを見詰めたままふっと大きな眼を細める。
「さっきの話だけど、もしあなたさえ良かったら、ほんとにしばらく来てやってよ」
「うん。実はもう、心の中でその算段しとってんけど、ほんまええんかな?」
「うん、すごく助かるし、喜ぶと思うの」
「おれな、今、心疚(やま)しいくらい、やすらぎを感じてんねん……。生まれてからずっと、どこに行っても“異物感”があって、おれ、ここに居てもええんかなって、いっつもこっそり自問して、肩身狭い思いしながら生きてきた。初めてやわ、こんなにくつろいでるの……」
不意に、彼、健吾という愛すべき男性が、その飄々とした外見からは想像できないほどの大きな孤独を抱えて生きてきたことが、はっきり理解できる。慰謝を与えたくて、衝動的に右手を伸ばしかけるが、やはり理性が勝って、不自然な形で両手を胸の前で組み合わせる。
「疚しいなんて思わないでよ……。きっと、そうなのよ。きっと、ここがあなたのホームなんだわ。ありがとうね、みつけてくれて」
静枝がお茶を運んできたのをしおに、席に戻る。お茶も、お茶請けに用意された梅の甘露煮も奇跡的な美味しさで、その感動っぷりを見ていた静枝は、にこにことおかわりを用意してくれる。
いつのまにか舞い戻ってきていた優希も、美味しそうに喉をならしてお茶を飲んでいる。
しばしの歓談の後、持参していたトートバッグから、小ぶりの写真アルバムを取り出して、静枝に手渡す。
「こないだの大谷梅林での写真です。なかなか気に入ってるんですよ」
「まあ、ええ写真やないの!!」
初めの数ページだけかるくめくってみた静枝が、思わず感嘆の声を上げる。
手札版のレイアウトの中、ポイントポイントにキャビネに引き伸ばされた写真が組み込まれ、観梅の流れをそのまま追体験できる構成になっている。
「わあ」「きゃあ」と歓声を上げながら、仲良く顔を並べてアルバムに見入る女子達を、健吾はにこにこと嬉しそうに眺めている。
「まあ、これ、ええ写真やわぁ。見て。みんなええ顔してる」と、静枝は梅林をバックに丘陵の中腹で撮られた四人でのポートレートを指差す。
「ほんと。あら、でも、誰が撮ったんだっけ?」
「ほら、写真撮りに来てたおじさんに頼んで」
「そうだったっけ?」
「それぼくも好きでね、額に入れたやつ持ってきてるんですよ」そう言って、バッグから箱入りの写真フレームを取り出して見せる。
「ほんまに? うれしいわ。あれ? でもこれ、健吾さん写ってへんやないの……」
「いや、家族写真にお邪魔かなあ思て」
「何言うてんの! こっちの四人のが良かったのに」
「あ、実は、自分用に焼いたん持ってきてはいるんすけど」
「ほんま? 替えといて」
「分かりました。じゃあこの三人のやつ、台紙にでも張って君んとこ送っとくわ」
「ありがと。次のお酒の配達の時でいいから」
「えっと、君んとこには俺が写ってるバージョンは……」
「あ、特に必要ないんで大丈夫」
「おっけ~」
女子達がアルバムの残りを楽しんでいる間に、フレームの写真を差し替え、静枝の指示に従って、奥の間のなんとも良い艶が出ている箪笥の上に飾る。嬉しそうに微笑んでいる写真の中の自分と目が合って、思わずふっと笑ってしまう。
写真鑑賞会が終る頃を見計らって、健吾は居住まいを正して、座布団の上に正座し、静枝に向き合う。
「では、静枝さん、本題に入らせていただいてよろしいでしょうか」そう言って、ブルーのショルダーバッグから、藍色の愛らしい袱紗を取り出して、静枝に向かってそっと差し出す。
「ぼくの祖父から預かっていたものです。これをお返しする為に、今日はうかがいました」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?