春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(三)
三
山城大谷駅を過ぎ、踏切りを渡って西方に進むと、ほどなく道沿いに木造の酒蔵が立ち並ぶ光景が見えてくる。駅前は新興住宅が目立つが、この辺りは旧街道沿いになるのか、古い木造の家々が多い。
「おれ、車停めてくるから、そっから入っといてくれへん?」
軽バンの後部座席から美佳と優希を降ろしながら、健吾が入り口を指し示す。
「こっちの方ね。わかった、ありがと」
バンを敷地内に乗り入れる健吾を見送ってから、美佳は両手を伸ばして深呼吸し、かすかに感じる甘い麹の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「う~ん、良い感じかも!」
数々の蔵を訪れて鍛えぬいた酒好きの直感が、「当たり」とささやいている。えもいわれぬ芳醇な香りを放つ美酒を既に飲んだ気になって、美佳はチェシャーキャットみたいに、にんまり笑う。
道を隔てた対面に直売所があり、梅祭りからの流れもあるのか、かなり賑わっている。
敷地内にも小さな梅林があり、その奥には田畑からなだらかな丘陵へと連なる田園風景が広がっている。しばらく眺めを楽しんでから、健吾に示された母屋の入り口、木製の重い引き戸を開けてみる。ひさしの下にぶら下がった大きな杉玉を、優希が面白そうに眺めている。
「ごめんくださ~い」
一応声をかけてみてから、屋内に踏み入る。ひんやりした空気と、かすかな木材の香気が心地良い。まずわりと広めの土間があって、左手に母屋への上がり口、右手に奥への通路と、ちょうど映画『男はつらいよ』のくるまやと同じような造りになっている。
不意に、藍染の前掛けをつけた男衆が、忙しく立ち働く幻視が見えた気がして、眼をしばたたせる。勿論そんな光景を実見したことはないのだが、痛いくらいの郷愁が胸にじんわり広がっており、ほんものの記憶を反芻しているような不思議な感慨を、美佳はぼんやり覚えていた。
「おまたせ~。そやなあ、とりあえずこのへん座ってもらうか」
慌しく入ってきた健吾が、端に積んであった座布団を、黒々とした艶が出ている木製の上がりかまちに並べる。
「昔はこっちでお酒売っててんけどね、手狭になったから向こうに新しくお店つくってね」
「良い雰囲気ですよねえ。わくわくしちゃう。かなり歴史のある蔵元さんなんですか?」
「はっきり知らんねんけど、明治の初め頃かな? たしかこの建物とか蔵は、創業当時のもんやったと思うわ」
「あ、清澄の蔵元さんだったんですね」
壁際の棚に並べられた、何種類かの一升瓶のラベルを見て、美佳が言う。今とは形の違う、年代ものの一升瓶もいくつか混じっている。
「知ってんの?」
「ええ。評判は聞いてたし、お店でも見たことあったんですけど、不覚ながら未体験でして……」
「ちょうどええやん、味わっていって。かなりいけてるらしいよ」
「『らしい』って?」
「いや、ほぼ下戸でして……」
「ええ~っ、もったいない!!」
「ほんまやね。カズの息子が野球ファンみたいなもんか」
「ごめん、意味わかんない」
「えっと、地酒好きってことは、かなりいける口なんよね。当然、試飲していくやろ?」
「ええっと、良いのかしら?」
「今さら何をおっしゃいますか。ちょと待ってて、用意してくるから」
にっこり笑って、健吾は「酒」と染め抜かれた黄土色の暖簾の向こうに消えてゆく。
「なあかあちゃん」
「なに? ゆきちゃん」
「ごきげんさんよかったなあ」
「あら? わかる? そんなごきげんだったかしら? もしかしてニヤついてた?」
「ゆきちゃんにも、イチゴだいふくこうてな」
「わかったわかった。もう買うから買うから。もし忘れてたら言ってね」
優希の背中に右手をまわしてなんとなく体温を感じ、おねむは大丈夫かしら……などと考えつつ、以前は商品が陳列されていたと思しき造りつけの棚の上方に飾られている、いくつかの写真フレームに眼をやる。
いずれも、四ツ切ほどの大きさに引き伸ばされた田園風景であり、どれもが真剣に見入る価値のある美しさをそなえていたが、その中の一枚に、はっと眼を奪われる。
梅林の写真!
思わず立ち上がって間近ににじり寄る。高台から見下ろすアングルで撮られたその黒白写真には、視界一面に咲き誇る白梅が写し出されている。花弁の一つ一つが生命を謳歌しているような、早春の華やかさと哀しさが鮮やかに胸に伝わってくる。
「おまたせ~」
頭で暖簾をかき分けて、健吾が、左手に酒器を載せたお盆、右手にラベルの貼ってない一升瓶を持って現れる。
「ねえ、これ、この写真!」
「ああ、それ? うちのじいちゃんが撮りよってん。なかなかのもんやろ?」
健吾がのん気に受ける。
「大谷梅林よね? どこから撮ったものかしら?」
「いやあ、どうやろ? 気にしたことなかったわ」
「もしかして天山からの風景?」
「う~ん、にしてはアングル低いようにも思えるし、木津川の方も写ってないしねえ。うちのじいちゃん、旅好きやったから、大谷やない可能性もあるしな」
「おじいさんに訊いてもらえないかしら?」
「ごめん、3年ほど前に亡くなっててね……」申し訳なさそうに眉をしかめ、健吾は応える。
「これがどこなんか、またいろいろ聞いて調べてみるから。とりあえずそれでええかな?」
美佳がこくりと頷くのを見てから、健吾はお盆と一升瓶を木製のテーブルの上に載せる。
「まずゆきちゃん、はいこれ」気持ちを切り替えるようににっこり笑って、サザエさんのプリントされたコップを、優希に手渡す。シャンパンゴールドの液体に浮かんだ氷が、コッと音をたてる。
ええの? といった風に美佳を見上げ、にっこり頷くのを見てから、こくこくと数口飲んでみる。
「おいしい!」
「おいしいやろう。うちで作ってる梅ジュースやねん。気に入ったら持って帰ってええしな」
「あぃがとう!」
「じゃあ今度はかあちゃんの方な」
「ああ、ありがとう……」
まだ少し物思いに耽っている風の美佳に、白い陶製のぐい飲みを手渡し、一升瓶から直接とくとくと注ぐ。
「まずは飲んでみて」
両手で包み込むように酒器を持っている美佳は、かすかに山吹色がかった液体をしばらくじっと見つめてから、鼻腔に近づけてゆっ~くり息を吸い込む。
「……ああ、吟醸酒ですね」
吟醸酒特有の甘いフルーティな香りが、胸いっぱいにひろがる。全身の感覚が“オン”になるのが分かる。
「いただきます」
口に含んで、眼を閉じて、口腔ぜんぶで味わう。
「おいしい……。これ、おいしいです……」
最も単純な言葉しか出てこないのがもどかしい。ほわっとした甘味が先に広がるが、味わっているとほのかな辛味と酸味が立ってすっと鼻に抜ける。米と水の恵みを凝縮したような、春風みたいな透明感と華やかさを感じる、まさに極上の美酒だった。
「よかったら、もうひとつ」空になった酒器に、すかさず健吾が注ぎ足す。
「これ、お店で売ってますか? あたし、ぜんぜん知らなかった、京都にこんな美味しいお酒……」
「うん、まだそんな出回ってないと思う。二、三年前にできたばっかりのお酒でね。そんなに美味しかった?」
「おいしかった! 感動した!」
「それはありがとう。飲んでもらえた甲斐があるわ。これな、さっき話しに出たじいちゃんが死ぬ前に造りよったお酒やねん」
「おじいさん?」
「うん、ちょっと変わった人で、自由人でね、ほとんど経営とかばあちゃんにまかせっきりで、自分は読書したり旅したりで、ほんま気ままに生きた人なんやけど、ええ年寄りなってから急に『最高の酒を醸す!』って宣言してね、もう酒米から酵母から自分で吟味しはじめて。あ、この人この人」
と、棚に飾ってあった家族写真を手にとり、中央に佇む男性を指差して見せる。
「あは、健吾さんにそっくりですねえ」
ひょろっとした体躯と愛嬌のある目元が、眼前の健吾そのままなのが可笑しい。
「そやねん、よう言われんねん。でね、周り誰も本気にしてなくて、老後の道楽や思てそっとしとこ……いう感じやってんけど、杜氏巻き込んで労苦数年、ついに醸し出したんがこのお酒、『白天梅』」
「はくてんばい……」
「うん。おれだけにこっそり打ち明けてくれた話しによると、自分の初恋の人をイメージして造ったらしいんやけど、ほんまなんだか嘘なんだか……っと、噂をすれば」
「こんにちは。お客さん?」
暖簾からひょっこり顔を出した男性が、眼鏡の奥の瞳を面白そうに円くしてこちらを眺めている。
「おお、信吾、ちょうどええとこ来たわ。今ひま? ひまやろ?」
「うん、まあ、ほのかに本読んだろかなあ思ててんけど」
「ちょっとこの人、蔵、案内したげてくれへん?」
「ええけど」
「あ、こいつね、おれの弟で若社長で杜氏でもある信吾。こいつがしっかりしとるから、おれがいつまでもふらふらしてられんねん」
「ふらふらて。あ、一之瀬信吾と申します。杜氏言うてもまだまだ見習いですけど」
「杉吉と申します。よろしくお願い致します」
と、美佳も立って一礼する。
「よう、ほのか」
「へーん」ほのかと呼ばれた女の子は、恥ずかしそうに若社長の脚に寄りかかって、体をゆらしている。
「ほのかちゃんっていうの? こんにちは。わたしは美佳で、この子は優希っていいます。ほのかちゃんなんさい?」
「ごさ~い」
「五歳かあ。ゆきの一つおねえさんね」
「なあほのか、ゆきちゃんと遊んだげたら? おまえもお友達できてうれしいやろ」
「ええよ」
「ほんとにいいの? ねえゆきちゃん、遊んでもらう?」
「うん」
「じゃあいっといで。ちゃんとほのかちゃんの言うこと聞くのよ」
「いや~」
「こらっ」
鞠がはねるように駆け出す子供達を、大人達はにこにこ笑いながら見送っている。
「蔵こちらです。どうぞ。」と、若社長は右手を伸ばして、にこやかに美佳を奥に誘う。
「兄きが案内したげたらええのに」
「いや、部外者が勝手に蔵歩くの気が引けてね」
「部外者て。またへんな遠慮して」
「あの、杜氏もしてらっしゃるんですか?」
「ああ、はい。メインブランドの“清澄”の方は、ずっと渡りの杜氏さんにお願いしてるんですけどね、ぼくはほんの一部だけ、やらしてもうてます」
「“白天梅”の?」
「はい、ご存知でしたか。祖父の我儘に巻き込まれる形で、結果的にうまくいったから良かったですけどね」
「私、こういう所に勤めておりまして」と、美佳は名刺を取り出して、両手で信吾に差し出す。
「青藍堂、さん?」
「はい、広告代理店なんです。如月酒造さんとか、淡雪製菓さんとかの広告を手がけたこともあります」
「へえ、如月酒造さんの」
「もっと広範囲への商品展開、ご興味ありませんか? もしよろしければ、お力になれると思うのですが」
「あれ? 今日はそういう御用事で? てっきり兄きのお友達やとばっかり……」
「いえいえ! 完全にプライベートで来たんですけれど、あんまり美味しいお酒なので、このまま埋もれさせとくのはもったいないって思っちゃって」
「別に埋もれてる訳やないと思うけどな」
急に仕事モードに切り替わった美佳を眠そうな眼で眺めていた健吾が、ぽつりとつぶやく。
「おれ、子供らと一緒に遊んでくるわ」
「あ、健吾さん」呼び止める美佳の声が聞こえないかのように、そのまま健吾はふらっと歩み去ってしまう。
「気を悪くさせちゃったかしら……」
「ああ、気にせんといて下さい、気ままな人ですから。元々案内ぼくに振ってきたのは兄きですしね。ほんまに子供らと遊びたなったんでしょう」
そう言って、信吾は静かに笑っている。背は健吾よりもかなり低く、いかにも若社長然とした色白の柔和な面持ちも、野性味溢れる健吾とは好対照といった雰囲気である。
「お兄さん、面白い人ですね」
「兄きねえ。一緒に家業継いでくれたら、こんな心強いことないんですけど、本人そんな気、まったくないみたいで」
「自由人なのかしら」
「う~ん、遠慮もあるのかも知れないですけれどね。ああ見えて、真面目に考えすぎるとこがあって、酒造りには生半可な気持ちで関ったらあかんって思ってるのか、蔵作業には一切手を出さないんですよ。手伝うのは、積み下ろしとか配達とか、単純作業だけでね」
「あ、なんとなく分かります」
「長男ってことで、いろいろ葛藤もあったみたいですけど、ぼくに継ぐ気があるって分かってからは、心置きなくふらふらし始めてね。しばらく放浪してた話しは聞かれました? 一度、ほんまに3年くらい音沙汰がない時があってね、さすがに捜索依頼出そうかってみんなで相談してた所に、奄美大島から箱いっぱいの黒砂糖が届いて、紙切れに一言『生きてます』ってだけ。もううちの祖母なんか『ハブに噛まれて死んでまえ!』って激怒してましたよ」
「うふふ、寅さんみたい」
「はは、うちにはさくらさんみたいな優しい女性(ひと)はいないですけれどね」
「お兄さん思いの優しい弟さんがいらっしゃるじゃない」
「そういえば……」それまで穏やかな表情をくずさなかった信吾が、ふと足を止めて、眼を細めて遠くを見るような面持ちになる。
「兄きも旅先で、恋しとったんかなあ……」
「してたんじゃないかしら。モテそうだもの」
「ごく若い頃をのぞいて、浮いた話し一つも聞いたことないんですよ。それこそさくらさんみたいな、しっかりした女性が兄きを支えてくれたら、どんなにえええかって思うんですけれど……あ、申し訳ありません、初対面の方にこんな話し……。えと、まずは“清澄”の純米酒からいきましょうか」
「かあちゃん!」
いくつかのタンクを巡って、何種類かの日本酒の説明を受けた後、端に一升瓶用のカートンが積まれた通路で立ち話をしていると、ちょうど裏口から帰ってきたほのかと優希が、駆け寄ってくるのが見える。
「こうえんいっててん。アスレチックもあったわ。ゆきちゃんな、おおきい人しかいけへん、ゆれるとことかたかいとこもいけてんで」
喜んで報告してくる優希の頭を、優しく撫でてやる。
予定していた帰宅時刻をかなり過ぎてしまっている。信吾とほのかに辞意を告げて、改めてお礼を述べていると、それまで姿を消していた健吾が。母屋の方からふらっと現れる。
「これ、さっきの残り、よかったら」
と、専用のビニール袋に入れられた一升瓶を示して見せる。
「ま、マジすか!」
「あ、でもまだ半分以上残ってるけど、多すぎるかな? できたら冷蔵しといてほしいねんけど」
「あ、えっと、小分けして冷蔵庫入れとくから大丈夫です」
今日中に綺麗になくなる予定……と、正直に言おうとするも、引かれると困るのでごまかしておく。
「ゆきちゃんにはこの梅ジュースな。かあちゃん重たなるし自分で持ってな。あ、これ、五倍くらいに薄めて飲ましたげて」
「あいがと!」
「ほな、駅まで送ってくわ」と、美佳の返事を待たずに瓶を提げたままふらっと歩き出してしまう。
「あっ、待って!」慌しく信吾とほのかにお別れを言って、健吾の後を追う。気が合ったのか、優希とほのかは、いつまでも手を振り合っていた。
駅へと続く路の右側にはまだ田んぼが残っていて、数百メートルほど離れた国道を流れる車群が見渡せる。道端には数本の桜の古木があり、固くて小さいながらも、既に可憐なつぼみをつけている。
オレンジ味の強くなった陽光が、長く伸びる三人の影をくっきり路面に映しだしている。ほんとの親子みたいに仲良く手を繋いで、少し先を歩く健吾と優希の後姿を見ていると、普段は多忙にまぎれて意識することもない孤独や不安が溢れてきそうで、頭を振って気持ちを引き締める。
「なあ美佳さん」
「ん? なに?」
「余計なお世話やと思うねんけど、ごめんね」いかにも言いにくそうに、健吾は視線を遠くに逸らしたまま話をしている。
「さっきさあ、ゆきちゃん迷子になってた時、きみこの子のこと『バカ』って言うてたやん」
「え? あたしそんなこと言ってたっけ!?」
「言うてた言うてた。思いっきり言うてた」
「そうだったかしら……? あたし、頭に血がのぼるとカーッとなっちゃうところがあって……」
「うん、いや、その怒りが、深い愛情からきてるのはよう分かるし、この子もそれはしっかり感じてるとは思うねん。でもな、この子のやること、突拍子もないと思えるとしても、一概に否定せんといたげて欲しいねん。ちゃんとこの子はこの子なりの行動原理があって、動いてるというか……。おれもちっちゃい時、そんなとこあってね、まわりの大人に怒られて辛い思いしたから、そのへんよう分かんねん」
「わかりました、心に留めておきます。でもね、カーッとなって怒っちゃうことはこれからもあると思うわ」
「うんうん、それはぜんぜんええと思うよ。それとね、もう一つ」
健吾がふり向いて、まっすぐ美佳を見つめる。その瞳があんまり邪気がなく、ひたむきなので、胸を衝かれる思いがして、美佳は眼を逸らしてしまう。
「な、何かしら? またダメ出し?」
「きみのおばあさんの案内、おれにやらせてくれへんかな? 今日は期待を裏切っちゃったみたいやけど、地元民しか知らんスポットもあると思うし、天山のこととかも、ちゃんとまた調べてみるし」
「わかりました。どうもありがとう。そうね……即答はできないけど、よく検討してみます。おばあちゃんの気持ちも聞いてみたいし」
「な、にいちゃん」
手を振って別れを告げようようとした健吾を、優希が呼び止める。
「じいちゃんがな、『きょうりゅうのほんのよこ』やって」
「なに? きょうりゅうのほん??」
「あ、この子、たまに妙なこと言うから気にしないでください」
「じいちゃんて?」
「ばいば~い!」
「あ、ちょっと……」右手を中途半端に伸ばして、物問いたげな表情の健吾を残して、母子は駅前の和菓子屋に消えてゆく
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