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『咲く花に寄す』 その8

     7

 翌日、まずは美佳を伴って、祖母が入院している総合病院を訪れた。
 ちょうど京都市内に配達の用件があった店のバンに同乗し、病院のエントランスで降ろしてもらう。彼自身は運転免許を取っておらず、特に理由があったわけではないのだが、せっかく拾った生命を損なうリスクを少しでも減らしたい、という意識もあったのかも知れない。
 病棟の受付で用件を告げ、容態を聞く。処置は成功したが、いまだ意識は戻らずという、昨日聞いていた状況と変わっていなかった。
 面会はできないことを承知で、病室の前まで行ってみる。
 入り口の横に掲げられた「田沼静枝」と記された名札を、しばらくじっと見つめる。ふっと微笑むと、右脇にたたずむ美佳に「さ、いこか」と告げる。
 病院からタクシーに乗って、次は東寺に向かう。
 如月の家に挨拶に行くか悩んだが、やめておく。もう数十年前のこととは言え、先代はまだあの件に関して覚えているはずで、妙に勘ぐられては困る。
 東寺の本堂に軽くお参りした後、そこから歩いてほど近い町屋の中にある、さる工房を訪れる。
 声だけかけて、そのまま上がり込む。作業中はなるべく雑事にわずらわされたくないのはよく分かっている。
 玄関を上がって廊下をすすんで、右側の間が六畳ほどの作業場になっており、床に座り込んだ白髪の男性が、長方形の木材に鑿を入れている。
 挨拶をして、床の空いたスペースに座る。「なんかお茶でも……」と立ち上がりかける男性を、「ええから気にせんといて」と右手を振ってとどめる。
 ぽつぽつと会話しながら、男性は作業の手を止めない。滑らかに動く彫刻刀が、白い木屑をどんどん削り出してゆく。
 ベテランの彫り師で、欄間などの建築用の彫刻が中心だが、たまに仏像も手掛けたりする。棟方志功の版画を想わせるプリミティブな作風はとても魅力的で、こっちに専念したら良いのにと思うが、定形の緻密な文様や図柄を彫ることが好きで、一番性に合っているそうだ。
 一時期、高名な仏師に師事したことがあるそうで、仏像に関して造詣が深く、交友関係も広い。もしや、梅観音に関する手がかりが得られるかもと、期待して訪れてみたのだが、残念ながら心当たりはないということだった。
「そういうたら……」
 しばらく世間話をした後、辞去しようとした彼を、彫り師の言葉がとどめる。
「逢谷、言わはったね? いや、関係あるかは分からへんのやけど、わたしらの先輩が、一時逢谷に滞在してはったいう噂があるんですわ」
「ほう」
 浮きかけていた腰を、再び落ち着ける。
「わたしがまだ仏師のせんせにお世話になってたころ、そら素晴らしい仏像を彫る先輩がいはったんですわ。名前は……そう、白山さんいわはったかな。あの人の優れた力量は誰が見ても明らかで、いずれは名の知れた仏師になるやろて、誰もが思てました。
 それが……召集令状が来て、身寄りのない人やったから、工房のみんなで送り出したんですけど、そのまま、逃げださはったんです。後で憲兵がえらい剣幕で調べに来ましてね、それが分かったんです。
 あんまりよう語る人やなかったから、お気持ちは聞いたことなかったんですけどね、そら庭の花々にまで優しゅう接するような人やったさかい、戦争行って人に銃向けるようなことはようせえへんて、思いつめはったんでしょう。
 戦争も終わって、だいぶ経ったころですわ、先輩が、つてを頼って、逢谷に……春には梅の花が咲き誇るという梅の里に、しばらく潜んではったいう噂を聞いたんです。ただ、そこでも憲兵にバレて、逃げださはったそうで、その後はもうまったくの行方知れずです」
 初老の職人は、年を経た木彫りの仏像そのもののような枯れた佇まいで坐し、とつとつと言葉をつむいでいる。面差しはあくまでも穏やかで、細められた小さな瞳からは秘めた悲しみを感じさせる。
「わたしは、戦争行った口ですさかい、仏の道に外れるような酷いことも、ぎょうさんしました。この世の地獄みたいな光景も見たし、神も仏もあるもんか! いうて、心底から天を恨んだこともありました。そんなわたしが、これ以上仏さんのお姿彫るわけにはいかん……思てね、仏師の道はあきらめたんですわ」
「せやったんですな……。おんなじです。ぼくも、おんなじです……」
 初めて聞く老職人の言葉は、壮絶と言うにも余りある時代を共に経験した彼の胸に、深く染み入った。言葉になど尽せない、整理などできるはずもない、痛みや葛藤を、いまだに抱えて生きている人々の多さに、彼は思いを馳せる。
「今でもたまに、先輩どうしてはるやろ……て、思う時があるんですわ。もし……あの時代を生き延びて、まだ仏さん彫ってはるんやったら、それはぜひ拝んでみたい思いますわなあ」
「そや……ちょっとこれ、見てもらえませんか」
 内ポケットに収めていた地蔵を取り出すと、包んであった袱紗を解いて老職人に手渡す。


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