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シロクマ文芸部掌編小説「噂」


霧の朝、
ベッドで静かに寝息を立てながら眠る彼女を
起こさないように
僕は厚手のコートだけ手に取って
外へ出た。

秋から冬へ季節が移ろいゆく過程にできた境界線を
人に悟られまいと霧は街全体を覆っている。

そんな濃い霧が立ち込めた道を歩いていると
風や人の気配と完全に断たれたような静けさに
僕は少し不安な気持ちになり
悴む寒さと逆行して
薄気味悪い身体の火照りを感じていた。


「彼女はどうやら
色んな男の部屋を出入りしているらしい。」
「セックス依存症だって聞いたぜ。」
「彼女の長く綺麗な黒髪に隠れた首筋には、
キスマークが電信柱に止まった雀のように
整列しているんだとよ。」
「あの子、あまり口を開かないじゃない。
それって噂が全部本当のことだからよ。」

彼女と付き合う前から                                                                
僕は彼女を取り巻く数々の噂を耳にしていた。
噂は特に悪いものばかりだったが、
僕は彼女の持つ純粋な美しさに
強く惹かれてしまったのだ。


公園までの見慣れたいつもの道のりが
濃霧で隠れていると
感覚は鈍くなり、
どこまで進み、どの角を曲がるのか、
判断が遅れてしまう。
立ち止まって周囲を見渡し
こんな所に郵便ポストなんてあったのかと、
記憶さえ曖昧になる。
そうして一度、道順を間違えば
自分の感覚を途端に信じられなくなり
僕は混迷に陥っていく。

彼女に噂の真偽を確かめることはしなかった。
なぜなら、僕はその悪い噂を内包した彼女と知り合い
恋に落ち、付き合ったわけなのだから
確かめるという行為は
彼女に抱いた愛情を自ら否定してしまうことになると
考えたからだ。

さらに言えば
彼女に関する噂が全て正しかったとして
僕は性的な欲求で
彼女に近づいたわけでないことを
自分自身に示すために
これまで一切の性的行為を
意図的に避けてきた。

だが、
彼女と同じ時間を過ごす中で
自ら決めた行いは
当然のように苦しみに変わった。
苦しみが苦しみを呼び
次第に彼女の側にいることさえ嫌気が差して、
その苦しみから
明け方突然目が覚め、
こうして度々外へ飛び出していたのだ。


見たことのない住宅街の十字路に
僕は立っていた。
霧は木の枝先まで呑み込むように
広がっていく。
僕は完全に見失っていたのだ。
進むべき道もあるべき自分の姿も
噂に隠れてしまった本当の彼女も
霧の中に全て消えて
僕はこの見知らぬ十字路の真ん中で
どこかから伸びた堅固な鎖に繋がれたまま
ただ茫然と立ち竦むことしかできなかった。



#シロクマ文芸部


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