シロクマ文芸部 掌編小説「レモン」
「レモンから、あなたをお救いできますわ。」
仕事終わり、駅のロータリーでそう声をかけられた。
確かに、俺に向かって発していたはずだが、
聞き返そうとする頃にはまた別のサラリーマンに声をかけていた。
背の高い若い女だった。
家に帰るとすぐ彼女へその話を持ち掛けたが
「そんなにおかしなこと?よくあることじゃない。」
と不思議がったと思えば
「ねぇねぇ、そんなことよりさあ、いつになったらレモンに会ってくれるわけ?私たち、もう二年も付き合ってるのよ。」
と言った。
俺はまた聞き間違いをしてしまったのかと思い
「レモン?」
と彼女に聞き返したが
「そう。」
と、彼女はどこかニヤけたような表情を俺に見せた。
怖くなった俺は思わず
「何を言ってるんだ?」
と語気を強めて言うと
彼女は怒って
「もういいわ。結局あなたは私とレモンする気がさらさらないのよ。分かってるわ。」
と言って立ち上がり寝室へと戻っていった。
次の日、いつものように仕事をしていると
上司に呼び出された。
「最近、レモンが目立つぞ。しっかりしろよ。お前より仕事のできる若いレモンもおるんだ。悠長にしとると、すぐ先を越されるぞ。」
と注意を受けてしまった。
俺は言葉の節々に確かに聞こえる“レモン”という単語に、怪訝な気持ちになったが、その時ばかりは聞き返せる雰囲気でなかった。
日常を過ごす中
言葉の端々を覆うように聞こえる“レモン”
それは例えばテレビやYouTubeなど、
直接人から聞こえる声だけでなく
その聞き間違いのような
あるいは幻聴のような
本来の言葉であるはずの単語が
“レモン”にすり替わっているのである。
そしてそれは
日を追うごとにますます酷くなっていった。
そんな日々がしばらく続き、
仕事を終えいつもの駅を降りると、
あの背の高い女が
往来の人々にまた声をかけているのが見えた。
俺は足早になってその女に近付くと
「レモンから、あなたをお救いできますわ。」
とまたいつぞやの言葉を口にした。
「どうすれば、レモンから救って下さるのですか?
最近、俺の耳が変なんです。時折、言葉がレモンに聞こえて、しかしそれは特定の単語がレモンに変わっているという単純なことではなくてですね…
それに厄介なのは、自分がレモンという言葉を発すると、相手は相手の認識する言葉に変わって伝わるのです。まるで俺だけが間違っているような、俺だけが言葉の認識を、レモンという言葉の認識を間違っているようなんです。」
俺は一気にそう話すと
背の高い若い女はゆっくりと息を吸い込み
俺の目を見た。
「すみません。おっしゃられている言葉がよく分かりませんわ。ですが、何をおっしゃいたいのかは、私には分ります。」
「なんです?」
「つまり、あなたは向き合うべきことからレモンしているのです。向き合うべきことからレモンした結果、あなたはその肝心な言葉をレモンに変えてしまったのです。」
女は俺の身体の隅々を見定めるような目つきになって
「しかし、あなたは気付いているはずです。たとえその単語がレモンに変わっていようとも、レモンに変わってしまった本来の言葉の意味を、状況や文脈で理解できるということを。」
俺は以前から薄々勘づいていたことを
突かれたような気分になり、
縋るような気持ちで
「どうすればいいですか。益々酷くなっていってるようなんです。何でも致します。どうか救って下さい。」
と言った。
女は鋭い目つきから柔和な表情に戻ると
「安心してください。この混沌とした世の中では、よくあることなのですよ。大丈夫です。
まずは、レモンとしっかり向き合うことです。」
と諭すような口調で俺に言った。
別れ際お礼を言うと、
何やら分厚いパンフレットを渡され
そのパンフレットを握りしめながら、
俺は、帰路についた。