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シロクマ文芸部掌編小説「紐」


「働いてみれば。」
今朝、仕事へ出かける前のミヨちゃんに
そう言われた。
同棲して三年目、初めてのことである。
ミヨちゃんは一頻り化粧を終えると
テーブルに置いた鏡から
少し目線をあげて
冬へと向かう季節の
朝の細い陽が差し込む窓の外側を見つめながら
寝起きのぼんやりとした口調であったのに
やけに芯のある声でそう言ったのだ。

平日昼間の住宅街を抜けて
小学校近くの通りに入った時
学校のチャイムが丁度重たく鳴り響いた。
街全体を覆う巨大なその音は
閑静な街中で一人何となく歩く俺の姿を
アスファルトにできた俺の影に映した。

釣られるように前方の影へ視線を落とすと
なにやら、歩くたび左右に揺れる紐状のものが
股の間から伸びている。
ジャージパンツの腰紐が
足首付近まで垂れ下がっていたのだ。
俺は一度立ち止まり
もうすぐには元に戻せない所まで抜けた
紐を手繰り寄せるように握った。
少し力を入れると、
簡単にパンツから切り離されてしまう紐は
掌の中で汗と混じって弱弱しく潤びれ
もうすぐ途絶えてしまいそうな生命の息遣いを
木枯らしに吹かれながら覗かせている。

寒々とした空の下
俺は額に汗を浮かべながら
ただこの紐を何とか繋ぎ止めるために
歩いていた。


#シロクマ文芸部








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