掌編小説「巣窟」


 私は悦びの中にいる。イヤフォンが絡まらない。野暮ったいこともない。全ての事柄が私の範疇を超えない。帆は風を受け満たされて、実に快活。

 考えることといえば、ベランダの鳩のフンの数くらい。いくら洗い流しても、また次の日になれば汚れていく。

 世界はひとりでに歩いていく。私はいつも置き去り。
 会社の人は私のことを見て「どうしてそうなの?」とか「なんかいいよね。」と意味深な言葉を空中に投げ入れる。その言葉は私の心の受け皿の上でただ転がっている。

 “巣窟“を“すくつ“と読んだ。急いで誤魔化したけど、時すでに遅し。沈黙が続いた後、上書きされるみたいに会話の中で訂正されて、天井に張り付いた。
 いつか消えてくれるだろうか。

 私は常にどこか間違っている、という感覚の中で過ごしている。それがどこから来るものなのか、はっきりと分かっているのだ。 

 教室の隅、ボサボサ髪の眼鏡をかけた女の子。唇は乾燥して割れ、いつもぶつぶつ何か言っていた、中学二年の女の子。机の上に“死“という文字をひたすら書き殴っていたから、怖くなった私は皆んなに言いふらした。その次の日から学校に来なくなってしまった隣の席の女の子。 

 
 ノートを広げた。あの子と同じように“死”と鉛筆で書いていく。
敷き詰められた私の“死”はなんでこんなにも意味を成していないんだろう。あの子の文字は、“死”は、あんなにも美しかったのに。

 カーテンは開けたまま。空は白い。人知れず出た汗を拭う。
 なんで私、巣窟って漢字“すくつ”なんて読んだんだろう。
 頭の中ではちゃんと、分かっていたのに。



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