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「どうする家康」note記事、執筆小話~執筆で気をつけたこと

はじめに
 「どうする家康」note記事も無事完走を迎えました。書き続けられたのは、作品に書かせる力があったことと読者の皆さまの応援のおかげです。そこで今回は、「どうする家康」のnote執筆のごく簡単な裏話を少しだけしようかと思います。
 まあ、こんな話に需要があるかわかりませんが、たまのこととお許しいただけたら幸いです。


1.noteを始めた経緯
(1)放映前夜
 「鎌倉殿の13人」最終回で私が呟いたあるツイート(現ポスト)がバズりました。今まで「いいね」が100行くことがたまにある程度だったのに急に5桁になったので通知が止まらず慌てたものです。さて、多くの反応がある中で、ある方が「来年の大河ドラマは見られますか?できれば青江さんのコメントありで見たいです」(大意)と声をかけてくださいました。
 元々、大河ドラマは見ていましたが、特に「どうする家康」は地元、岡崎が舞台ということもあり関心が高かったので「観ますよ~」と気楽に答えました。

 ただ、私の視聴スタイルは、基本的には録画したものを気が向いたときに視聴するというものだったので、返信した後、「安請け合いをしてしまったな…」と内心思っていました。とはいえ、まあ、これも良い機会かとリアルタイム視聴。視聴中と視聴直後に感想ツイートするようになりました。

(2)「どうする家康」開始後
 これまでとは違った雰囲気で始まった「どうする家康」。当初は簡単な感想と地元民ならではのネタをツイートするくらいの軽い視聴だったのですが、回を進むごとに作品の様子が変わってきます。
 決定的だったのは、第6回「続・瀬名奪還作戦」での今川氏真の父親に対する憧憬とそこからくる元康(家康)への嫉妬に関する心理描写です(詳細はnoteの最初の記事「「どうする家康」において三河一向一揆とは何だったのか その1」をご覧ください)。この回の主役は家康ではなく、氏真でしたが、彼が家康を描くための対比になっているのは明らかでした。

 こうした巧みな構成と丁寧な心理描写こそが、この作品の要だと感じるようになった辺りから、私のツイートも次第に内容面と演出に踏み込んだものになりました。また、その頃からツイートにも「いいね」の反応がそれなりに出るようになってきました。だから、私のnoteは、第7~9回「三河一向一揆」編のまとめからであるにもかかわらず、「瀬名奪還作戦」前後編にも一章割いているのです(笑)

 そして、第7~9回「三河一向一揆」編になると毎回、ツイート数自体がかなりのものになり、これは文章として一まとめにしておいたほうが良さそうだなと思うようになりました。「いいね」もまあまあもらえている(100~200程度でしたが)ことだし、書けばそれなりに読んでくれる人がいるかもなあという甘いことを目論んでいたのも事実です(笑)

 そして、極めて個人的な事情もありました。私は末端の文学研究者ですが、年齢もそれなりになり、新しいことを始めていかないと自分自身の能力が早晩、衰えることを丁度、危惧していました。そこで、毎週、このドラマの考察を短期間で書くことで、視野を広げ、そのかかる負荷で分析力が多少上げようと思ったのです。
 特に研究者の論文は、業界の人間以外はあまり読みません。割と閉じた世界です。したがって、多くの人の目に触れる、業界外の人に読まれることを意識した文章を書くこと自体が修行にもなるだろうと考えました(まあ、実際は修行どころか、苦行に等しいものになりましたが)。

 更に、以前から友人たちから映画やドラマの感想をブログか何かに書くべきだと勧められていました。こうした条件が重なった結果、note執筆を決意したのです。
 他のブログではなく、noteを選んだのは、割と初心者にもやれそうだったこと、個人的には一番読みやすいサイトだったからです。ただ、どういうマナーがあるのか、どの程度の分量が読まれるのか、そうしたことを全然調べもせず、善は急げと始めたので見切り発車もいいところでした(苦笑)


2.「どうする家康」のnote執筆のポリシー
 見切り発車だったとはいえ、「どうする家康」のnote執筆にあたり、自分なりのポリシーだけは決めておきました。

(1)ライブ感
 Noteの閑話休題的なコラムで触れたように「どうする家康」は、家康の「どうする?」という選択のライブ感重視された作品でした。したがって、リアルタイムで見ている視聴者も作品と共に「どうする?」的な味わいをしているはず。となると、視聴者の方々に共感してもらう記事にするには、見たときの感想に寄り添うことが必須です。そこで、私が他の視聴者と感覚を共有できていはそうなもの…つまり私自身の視聴直後後に備忘録的にしていたツイート(ポスト)を元に書くことにしました。

 要は、私の初見の感想を軸に考察することにしたということですね。また本放映を見た感想の純粋性を保つため、ガイドブック、ノベライズなどネタバレ要素を一切読まないという縛りを設けました。公式アカウントのキャスト発表ぐらいしか見ていません。歴史はそこそこ好きなので、持ち合わせている程度の知識は使いましたが。
 ですから、最終回の記事までずっと、初めて観る感覚と感想が、「どうする家康」のnote記事の基本となっています。

 勿論、考察である以上、公平性と公正さは必須です。単に自身の感想に偏ることなく、客観的な観点と論拠を示すということは研究職の端くれとして譲れない点にしています。
 俳優の芝居をの評価も、なるべく作品の中でしっかりと機能しているときにしています(ローマとか半分ネタのものは別として)。

 またライブ感を保持するためには、記事の新鮮度も重要です。ですから、必ず早めに記事を上げることも自分に課しました。視聴者の熱気のあるうちに読んでもらうのが一番だからです。ただ、知っての通り、記事の長さが2万字程度がデフォルトになり、時折、スランプや仕事の都合で、最大水曜日までお待たせしたのは申し訳なく思っています。

(2)エンタメ性よりも耐用強度を重視
 前者はわかっている人向けのコンテンツになります。ですから、たぶんに省略してノリとネタ重視で書くことになります。分量的にも少なく済みます。こちらのが、閲覧数が上がり、よく読まれるでしょう。反面、リアルタイムで観た層向けの内輪受け、時事性の強い消費コンテンツになるというマイナスもあります。
 逆に後者は、あまり読まれず浸透するにも時間がかかります。ただ、より広い層向けであり、真面目なコンテンツですので、時間が経ってから読んでも簡単には廃れない、一定の恒常的強度があるのが特徴です。

 2023年3月頃の「どうする家康」は、一部の層から不当な評価をされているようでした。その結果、拡散されたその評価に惑わされてしまった食わず嫌い、あるいは一時的に離れてしまった視聴層を生んだように思われました。
ですから、作品が持っているポテンシャルでいずれ巻き返し、視聴者が増える、戻ってくる可能性があります。となると、後追い勢の補助にもなる恒常的な強度の高い記事に需要があると考えたのです。
 また、現状見ている人に別の楽しみ方を提案するにも、年月に耐えうる強度の高さが求められるでしょう。この二つの観点から、エンタメ性よりも強度を優先し、真面目でやや固く、読み応えがある記事にすることにしました。

 ただ、長文になるということは、それだけでライト層を逃してしまい、読者を選んでしまいます。読む負担が大きく、また通勤、通学のついでに読むというわけにはいきません。実際、読んでいて電車を降り損ねたという感想も伺いました(苦笑)
 その上、複線回収が多いこと、その回の再現性にこだわったため、回が進むに連れて、最終的にデフォルトが2万字になってしまいました。素直によく読んでもらえたなと思っています。
 また、書く私の負担も相当なものになるのも大きな欠点です。

(3)平易な語り口を目指す
 さて、ターゲットを真面目でより深く、多角的に楽しみたい読者と後追い勢として、作品の振り返りを重視した記事にすることに決めました。後は、それに合わせた語り方が大切になります。まず、長文になるだろうということから、構成上の読みやすさが必要です。基本的に放映されたストーリーに準拠した文章になっているのは、人間にとって物語の流れが一番理解しやすいからです。
 またストーリーの流れには意味と強度がありますから、話下手な私はそれに乗っかるのが正解です(笑)
 ただ、一度、作品を見た人には飽きるという欠点があり、考察の核心に行く前に読むのを止めてしまうリスクがあります。こうしたマイナス面は、最後まで上手く処理できていませんね。

 そして、次は語り口です。論文書きは、難しくてカッコいい言葉を使いたがる悪癖と、その性質上、批判的で断定的な言葉遣いをします。しかし、それは業界人向けのパフォーマンスでしか許されないもの。
 広く多くの人に読んでもらえるよう、なるべく平易な言葉遣いとソフトに語りかけるような形を模索しながら書きました。せっかく読んでもらうのですから、読み応えになる程度には難しい言葉を混ぜています。この点は概ね、読者の方々に受け入れてもらえたように思われます。
 私の生理的な面も反映されているので、この話し方は独特かもしれません。

 まあ、私の普段を知る方からは、毒が足りない、キレがないと言われましたが…普段、どんなに酷い毒舌なんだか(笑)

(4)アンチを煽る表現は避ける
 さて、最後に気を付けたのは、作品のアンチを煽らないことです。これには理由がいくつかあります。X(旧ツイッター)でもタグで一応、住み分けがされていましたし、純粋に作品を深く楽しみたい人向けにしたいというのがありました。また、本格的に考察をすると、そちらへの対応にまで構っていられないだろうと思われました。

 二つめにアンチに対する反応は時事的な要素が強くなるため、今回、目指す長らく使える強度の記事という方向性とはそぐわないということです。また記事の語り口とも合わないでしょう。

 そして、三つめは、今回の記事が自分の文章力、表現力、考察力の訓練であるということです。これを測るには読者の反応しかありませんが、アンチの煽りは閲覧を稼ぐカンフル剤になる、気は晴れるものではあるのですが、純粋に自分の力を見て鍛えることには向いていないのです。閲覧はX(旧ツイッター)とハッシュタグの拡散力に頼るだけにしようと思いました。


おわりに
 こうして「どうする家康」note記事が始まります。いい加減な気持ちの見切り発車だったことで予想外のことに苦しむことになるのですが、それはまた別の話。これ以上は自分語りが長くなるだけなので今宵はここまでにしとうございます(笑)ご要望があれば、続きは考えますが…
 因みに来年度はもう少し分量も少なく、ライトで無理なく続けられる形式にするつもりです。この形式の負担はかなり大きいので。

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