「どうする家康」において、三河一向一揆とは何だったのか その1
はじめに
三河一向一揆…徳川家康の三大危機と言われる事件でありながら大河ドラマでそれが描かれることはほとんどありませんでした。「徳川家康」(1983)では第9話「三河一向一揆」で採り上げられるものの、前半は家康と瀬名の溝が中心、一揆の暴発、収束まではわずか20分強の扱いでしかない。唯一、NET(現・テレビ朝日)放送の『徳川家康』(1964)が3話割いた事例があるのみで、60年前と相当に古い。あまり描かれなかったことは、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなど武将同士の大戦に比べて面白味がない、戦国期の民衆史は未解明部分が多く評価がしにくい、家康の汚点は描きづらいなど様々な要因があっただろうと察せられます。
こうしたこれまでの家康ドラマの状況を踏まえただけでも、「どうする家康」が今まで三河一向一揆を真正面からどう捉えて、描くのかということは画期的であると同時に今後の展開を占うターニングポイントだと言えるでしょう。そこでこの文章では、その点について、私が呟いたツイート群を物語の時系列に並べてまとめることで考察してみます。
1.前哨戦としての瀬名奪還作戦、前後編
さて、三河一向一揆編を振り返る前に瀬名奪還作戦を少し振り返っておきましょう。瀬名奪還作戦は、家康が家臣団を信頼し妻子を取り戻すという経緯をとおして、親子というテーマを浮き彫りにする内容でした。鵜殿長照が今川家に忠義を尽くしながらも息子たちについ目線を向けてしまう、関口氏純夫妻がその身を犠牲にして、瀬名親子を守る(巴の瀬名への言葉、氏真への的を射た苦言は名場面)、父大鼠の後を継ぐ女大鼠など様々な形で親子の在り様が描かれました。中でも白眉が、氏真に関する描写であるのはファンの多くが納得するところでしょう。
氏真は家臣たちを信用しきれず、酷薄な対応を取るという点で元康(家康)とは対比的に描かれます。そして氏真の不信は、全能的であった偉大なる父:義元へのコンプレックスの裏返しです。それだけに、その義元から才を認められているように見え、自分の思い人だった女性(瀬名)と結ばれ家庭を築く元康に対する思いは複雑になります。その心境が、自身への裏切り行為である清州同盟によって憎しみへと転じ、それが頂点に達するのが瀬名母子と長照の息子らとの人質交換の場面。元康憎しから瀬名らを狙撃しようと企む氏真は、竹千代の「父上!」で思い留まります。この一言で彼は父の愛に飢えていたこと、その孤独こそが自分の心根だと気づいてしまいます(その前の場面で、巴の指摘が彼に刺さったのも父と比較されたから)。そして、元康に向ける嫉妬と羨望の眼差しと父の具足に向き合うラストに、その想いは集約され瀬名奪還作戦の前後編は幕を下ろします。
この前後編の主人公はまさしく氏真であったことを示す溝端淳平くんの好演が印象深い一方で、それによって元康が既に家族と信頼すべき家臣を手に入れていることを強調しています。後年、家康の股肱の臣となる(が前半生はあまり知られていない)本多正信(松山ケンイチ)をこの序盤で登場させたことも無関係ではありませんし、また元康の「一生懸命に戦う者を笑うな」「ワシは信じる!」という家臣思いかのような台詞が作戦の成功に繋がっているのも象徴的だと言えるでしょう。
したがって、その既に手に入れているはずのものが本当にそうなのか、そして、その大切さを元康が本当に分っているのか、そこが次のドラマになっていく準備がなされている回だとも言えますね。
2.第7回「わしの家」&第8回「三河一揆でどうする!」~独り善がりな家康と三河に馴染む瀬名~
(1)夢想家:家康
ナレーションが語る「我らが神の君」、神君家康公伝説を崩す本編の家康の姿というのが「どうする家康」の基本的な構成になっています。つまり、人間らしい家康、良いところも悪いところも容赦なく描くというある種の冷徹さをドラマに強いているのが特徴です。それだけに本作で起こる数々の出来事は、常に家康の器量を上回る過酷なものとして描かれています。まず、このことを踏まえた上で各話を見ていきましょう。
第7回の冒頭は家康の竹千代時代の回想から始まります。今川義元(野村萬斎)が登場と「否!」と芝居がかった発言がネタ化するインパクトの裏で、この三河一向一揆編で最も重要なことを話しています。それは「天下の主は民」という点。そして、これは義元の会話直前に竹千代が読んでいる『子貢問政』(兵・食・信の中で最も大切なのは信)とも直結しています。つまり、政治において、民の信頼を得ることが大切だということを竹千代は幼少期に座学として学んでいたのです。因みに、ここで『子貢問政』を出して来たのは意図的です。何故なら山岡荘八「徳川家康」において、竹千代が太原雪斎から道理を学ぶ際に引用されたのが『子貢問政』だからです。大河ドラマ「徳川家康」でも印象的に描かれたこの場面は、家康が幼少期には政治に大切なものを獲得したとする謂わば、神君家康公神話を準えた展開。それを、義元(家康のメンター)から学ぶと言う形で「どうする家康」風にアレンジしたのが、このオマージュなのです。
さて、この学びを基に元康は、三河という国を一つの「家」(情の溢れる幸せな世界)に見立てて、家康という名に改名します。それは美しく気高い志であり、また瀬名奪還作戦で家臣との絆を結べたと無邪気に信じられる彼ならば当然の流れと言えますね。
しかし、それを直後に打ち砕くのが、まず信長です。彼は家康の改名とその理由について「誠に結構」と言いつつ、全く統一出来ていない現実を家康に突き付けます。美濃攻めの後顧の憂いを断つための発破とはいえ、わざわざ三河まで出向いて親切に説明してくれる辺りに信長のツンデレな性格が面白い場面ですが、これは前半の家康にとって信長はメンター(導き手)の一人として設定されているということでしょう。つまり、国を家と見なすのは構わないが、「お前は政治、統治が何なのか分かっているのか」と力なき思想の空虚さを同じ為政者としての視点から指摘するのが信長の役割なのです。
そして、追い打ちをかけるのが、信長に発破をかけられた三河統一のための兵糧が不足している問題です。因みに『子貢問政』での「食」の問題に当たりますが、兵よりも食が重要と考えているので、ここは難なく学んだ通りにクリア。
しかし、その兵糧の問題をクリアするため、先代から不入の権を得ていた一向寺院から年貢を取ろうとします。彼は自身の「一つの家」の理想から外れているという理由で不入の権の一方的な破棄を考えますが、ここには「ルールは領主が設定するものである」と考えている節が窺えるでしょう。ルールが両者の信頼と了解があって初めて成立することが抜けているのです。更に家臣たちが説く一向衆らの信仰の深さやその理屈に聞く耳を持ちません。家臣たちの配下は一向門徒たちが多数いるのですから、家臣らの願いは切実です。しかし、彼はそこへの想像力を働かせることなく、寧ろ自分の苦労を理解しない家臣らに不満を募らせる。家臣や民を自分の理想引っ張っていくことは考えても、自身を家臣や民へ寄せていくことは思いもよらない…そこに為政者の思い上がりと押しつけにしかならない「一つの家」という理想の限界がほのめかされているのです。
その不穏を抱えながら、物語は、実態調査のため家康らが農民に化けて、本證寺に潜入する件へと進みます。この際に家康が農民に扮した姿が必要以上にみすぼらしく当の農民らに笑われる場面が挿入されます。ユーモラスなシーンであるのは勿論ですが、それだけでなく、実は「民は汚い」という家康のズレた民衆認識、偏見そのものなんですよね(平八郎と小平太は主君に合わせるしかないですから不問ということで)。このことが、最終的に本證寺で民の現実を見ても、瀬名に苦言を呈されても「不浄だ」で年貢取り立てが出来てしまうことへと繋がっていきます。
その2へつづく