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「どうする家康」第44回「徳川幕府誕生」 家康の円熟が生む新しき政

はじめに

 今回は関ヶ原の戦いからの10年間、かりそめの平和を徳川家が、豊臣家がそれぞれどう過ごしたかが、描かれました。オープニングアニメーションにもなった秀頼の背丈を刻む柱が、時間の経過を示すと同時に両家の緊張関係の高まりを示す道具立てになっているのが興味深いですね。


 老境を迎えた家康の10年は、親しき者たちとの別れの歳月となりました。単純に言えば、人は必ず老います。身体は言うことをきかなくなり、頭も鈍くなり、そして朽ちていく。どんな強い願いも、思いも「老い」には勝てません(ということを私も現在、実感しています)。
 避けられないその番が家康たちに巡ってきました。結果、1話から登場した家臣は遂にいなくなり、家康は若い頃を懐かしむ仲間を失いました。
 対する豊臣家では秀頼という新たな希望が育つ10年です。家康を苦々しく思い、腹を立てることはあろうとも「秀頼さえ成長すれば」というその若々しさへの期待があればこそ、明るく、楽観的にもなれます。


 このように一見すれば、今回は人生の下り坂の哀愁が漂う家康と成長著しい秀頼との対比になっています。しかし、家康たちの老境にあったのは寂寥感だけではありません。変わらぬ信頼、友情、忠義、愛情も健在でした。ユーモアを交えたそれらの表現からすれば、家康と家臣団の人生は、円熟期の充実も伴っていることに気づくでしょう。

 一方、秀頼の成長に沸く豊臣方は意気揚々に見えますが大阪城内に籠り、内向きであるかのような表現です。自分しか見ず、現実が見えず浮き足立つ…若さ特有の愚かさが窺えます。


 老いの円熟…それは今回限りと言われているオープニングにも表れています。ピアノによる主旋律を基調とし、それを引き立てる今回のメインテーマのアレンジは静かですが骨太です。
 またタイトルバックの映像は、水墨画のようです。いくつもの山や谷が次々と現れてきますが、これは家康のこれまでの苦難でしょう。山間に見える数々の旗らしきものからすると、この苦難は戦も象徴しているのかもしれません。
 そして、中盤に現れる太い墨絵による円はどんどん塗り重ねられ、綺麗な黒の円となっていきます。これはおそらく家康が築いた人の和そのものなのでしょう。つまり、家康はこれまで築いた人の和によって、多くの苦難を乗り越え、桜吹雪く蒼い富士という「戦無き世」に辿り着こうとしているのではないでしょうか。

 各場面で、つがいと思われる二羽の兎がずっと跳ねているのも良いですね。あれが家康と瀬名なのか、それとも弱き領民たちの象徴なのかはわかりませんが、とても意味深ですね。


 こうして見てみると、本作では、老いとはマイナスばかりではなく、人生の完成、円熟という意味もあるように思われます。要は家康が、「老い」の現実を引き受け、秀吉の最期のような二の轍を踏むことなく、どう次代へつないでいくのかということなのでしょう。

 そこで今回は家康と親しき人たちとの別れ、秀忠の教育から、関ヶ原合戦後の家康の10年を総括し、晩年の彼がしようとしていることについて考えてみましょう。




1.いざ、「戦無き世」の政の準備へ

(1)豊臣への警戒が家康を征夷大将軍に

 冒頭は前回の家康と三成のやり取りをクローズアップします。三成の「戦無き世など成せぬ。まやかしの夢を語るな…」という慟哭に対する「それでも…わしはやらねばならぬ…」という家康の静かな決意の場面が改めて繰り返されます。このやり取りは前回のnote記事でも触れたとおり、家康が乱世の全てを引き受け、孤独な天下人となり人々の恨みを買う覚悟をしたことを意味しているでしょう。
 つまり、家康がいかにして戦無き世を作るか、その答えを出せない限り、三成に本当の意味で勝利したとは言えない、家康の天下取りの道は始まったばかりなのです。



 その最初の関門が秀頼への戦勝報告です。近年の研究がそうであるように、そして劇中で茶々が述べたように、関ヶ原の戦いは豊臣家中の主導権争いです。ですから、改めて家康は秀頼を前に「天下の政は引き続きこの家康があい務めますゆえ、何とぞよろしくお願い申し上げます」と平伏する必要があるのです。その家康の申し出に「誠に結構」と艶やかに答える茶々は、秀頼に家康を父と呼ばせるなどあざとい真似をいけしゃあしゃあと演じます。
 茶々の腹を見極めようとする家康の眼はすうっと無表情なままですが、言葉尻を真に受ける秀忠は片桐且元を見やり無邪気に喜んでいて、どす黒い腹芸のやり取りの中、一人浮いていて痛々しいですね(苦笑)


 一通り戦勝の挨拶が終わると、茶々は不意に濡れ縁の柱を見やり「毎年正月にあそこに背丈を刻んでおりましてなぁ」と秀頼の成長だけが楽しみな母の姿を演じます。且元が刻まれた印の中から「因みにこれが太閤殿下」と述べたのに合わせ、茶々は「後十年もすれば太閤殿下に追いつこう…」と微笑みますが、家康はこうした話を切り出した茶々の意図を探るような顔をするのみです。
 そして、「さすれば太閤殿下の果たせなかった夢も秀頼が果たすこともできましょう」と今後について語り始めます。「果たせなかった夢=唐入り」だとかなり不味いですが、それが何かは触れず、「それまでの間、秀頼の代わりを(代わりを)頼みまする」と慇懃にお辞儀をします。「代わりを」の部分だけリフレインされるのは、そこだけが茶々の本音であり、それが家康にもしっかりと届いたからです。


 流石に秀忠は返答に困ったように目が泳いでいますが、秀頼の「頼りにしておる」の言葉に家康は顔色ひとつ変えることなく平伏します。茶々には返事をせず、あくまで秀頼の言葉にのみ応じているのが精一杯です。結局、家康が総力をかけた関ヶ原の戦いにおける勝利も、所詮、豊臣家の掌中での出来事に過ぎないということを改めて強調された形になりましたね。

 退出する家康に茶々は「時にお孫はおいくつになられた?」と呼び止めると「姫と秀頼の婚儀、太閤殿下のご遺言どおり、しかと進めましょう。両家が手を取り合うことが何より大事でありますからな」と切り出します。言葉と婚姻の意味こそは北政所が望む共存ですが、茶々がそれをこの場で持ち出すのは、あくまで徳川は豊臣の意向に従う家臣であると主従関係をはっきりさせるためです。ですから「太閤殿下のご遺言」と秀吉の権威を笠に着るのです。要は恫喝なのです。



 一見和やか…実は際どい腹芸だった謁見が終わり、家康が去ると、茶々はすぐに本性を現します。秀頼に食い気味に顔を寄せると、まなじりを上げ「わかっておるな?あの狸、決して信じるでないぞ」と凄まじい形相で言い聞かせます。母の豹変も圧力もいつものことなのか、秀頼は「はい」と素直に返事をするのみです。

 一方、憤懣やるかたないのは家康も同じです。最終的に茶々に主導権を握られ、婚姻の約束を改めてさせられた家康はずんずんと廊下を進みます。謁見で茶々に能天気に頷く秀忠を頼りなさげに見ていた家康ですが、「いやぁ、ようございましたな。茶々さまも徳川と豊臣がしかと結ばれることを望んでおられる。これで安心じゃ。良かった良かった」などと本気で喜ぶ秀忠には呆れ果て、置いていこうとします。
 慌てて追いすがる秀忠に一言「はよう人質を寄越せと言っておるんじゃ」と茶々の真意を教え、徳川家が未だ豊臣家より優位にないことを伝えます。この時点では、家康が豊臣を差し置いて諸大名に命を下すことはできないのです。


 ただ、茶々が千姫を利用した婚姻の履行を迫ったこと自体は、豊臣家の生き残りのためのギリギリの必須の方策でした。家康のような力のある大名は敵に回しては危険です。親類衆として手元に置いておくことが得策なのです。無論、自身のプライドを保つためのマウント取りに終始する茶々にその自覚はありません。だから、懇願すべき案件を恫喝に使って見せたのです。

 また個人的な家康憎しに凝り固まる彼女は、生き残るために最も重要な徳川家との共存を全く考えていません。もしも、彼女が豊臣家の置かれた危うい将来にわずかでも意識があれば、結末は変わっていたかもしれません。彼女がしたことは、結局、家康に警戒心を持たせただけなのです。家康の築こうとする「戦無き世」の実現の妨げになるものとして。



 さて、政治の現状の実権はともかく豊臣の権威が健在とはっきりした以上、関ヶ原の戦いの論功行賞は慎重に行わねばなりません。巧みに徳川家の財を増やし、危険な豊臣恩顧の大名たちを徳川家の領地から引き離さねばなりません。家康は一人、地図を広げて、各大名の配置について思案します。

 そこへひょこっと顔を覗かせ様子窺いにきたのは本多正信です。「いよいよ、難しくなりますな、あちらとのお付き合いが」と謁見の様子を察した彼は「いかがでございましょう。いっそのこと将軍になるというのは?」と家康の当面の悩みが何かをあっさり見抜き、武家に命を下せる権威の獲得を献策します。それが、「足利家がだいぶ値打ちを落としてしまった」(正信)ため空位になっていた征夷大将軍です。値打ちが下がっても朝廷から与えられた権威は権威です。だから「それでも幕府を開けばやれることは随分増えるでしょうな」と助言します。

 「徳川は武家の棟梁、豊臣はあくまで公家…住み分けられるかもしれんな」と活路を見出した表情の家康に、正信はぽりぽりと耳をかきながら「将軍職、どのへんに落ちとるか、探してきましょうか」と冗談めかして去っていきますが心なしか軽い足取りです。家康の「戦無き世」を築くための政は、三河一向一揆で領民側についた正信にとっても念願だからでしょう。彼は家康のために、手を尽くして銭ゲバで面妖な朝廷側との折衝の全てを行おうとするのです。



 その頃、新たな赴任地、桑名で愛槍、蜻蛉切を手入れする本多平八郎忠勝が、その手入れで誤って手傷を負います。これは、死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていて手元が狂ってかすり傷を負い「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたという逸話の引用です。平八郎にも、家康にも、老いが迫っていることを予感させて、アバンタイトルが終わります。



(2)家康の天下泰平を信ずる母の後悔と願い

 オープニング後は、於大と寧々に家康が茶を一服煎じている場面です。1602年の於大の上洛は、家康が豊臣に敵意がないことを見せる政治的演出を兼ねていました。家康はアバンタイトルで述べていた「住み分け」という共存を模索していたか、あるいは単に征夷大将軍を豊臣家に認めさせるための下準備とも言えましょう。ただ、そんな詳しい事情を知らない於大は、これから家康による安寧の世が訪れると信じていたと思われます。


 だからこそ、もう時効と長年つき続けた方便を「…だからこの子は寅年生まれの武神じゃあと言って一同を欺きましてな(笑)」を寧々にまで暴露してしまいます。於大の発言に「え?」とマジで振り返ってしまう家康の後ろ姿に妙な哀愁が漂っているのが良いですね。

 そうとも気づかず「ガオーガオー」と爪を立てる仕草で虎の真似をしている於大は年甲斐もなく、というか変わりませんね(笑)その言葉に「皆、内府どのは寅だと思っとりますに…」と寧々は目を丸くしますが「この子は兎だわ」とその干支だけでなく、その心根までも教えてしまいます。
 そして、ようやく「家康、そなたはいつ頃まで寅と信じておったかのう?」と振られた家康は、申し訳なさそうに「今日まで…」と答えます。「へ…?」と返す於大に、世にも情けない顔になった家康は「今の今まで信じておりました…」と呆然としています。


 爆笑する二人の女性を前に、もうすぐ征夷大将軍になろうという男も形無しです。慰めるように「聞かなかったことになさい」と家康に言うものの「今となってはどうでもよいことじゃ」とあっけらかんと言います。「そうもいきますまい」とやや困った顔の家康に、寧々もまた「やはり将軍さまは寅のほうがようございますものな」とからかい、家康は更に笑われてしまいます。いやはや、於大を前にしては、家康はいつまでも竹千代、兎のままなのかもしれません。まあ、母は強しを地でいく於大に勝てる人はあまりいませんが。

 ただ「今となってはどうでもよいことじゃ」と言える於大には安堵の気持ちが漂っていますね。あのとき、寅年生まれを偽ったのは生き残るための必死の方便です。その方便を使い、気を張らなくても良い世の中がきたと実感しているのです。


 因みにここで家康が今更、卯年と知るのは、征夷大将軍になった年、陰陽頭土御門家に、無病息災と長寿を祈願するよう求めた願文に「六十一歳癸卯年」と署名しているからですね。その署名を回収するための遠大なネタ振りでもあったわけです。ただ、これは陰陽道に合わせた算出の結果だったようで、家康の寅年生まれは確定しているのだとも言われています。



 さて、その日の夕刻、於大は家康の調合した薬を振る舞ってもらいながら「都に招いてくれてありがとうのう、天子さまにまでお目どおりできるなんて、夢のようだわ。何も思い残すことはない」と彼が夢を叶えるところまできたことへの万感を語ります。これからが孝行だと「長生きしてくだされ」と返す家康に…於大は器を見つめ、暫し思いを巡らす表情をします。

 たっぷりの間の後、静かに「すまなんだのう、国のために全てを打ち捨てよとは。そんなことばかり、私はそなたに言ってきた」とぽつりと呟きます。思えば、於大の家康への警告は「主君たる者、家臣と国のためならば己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ!」という家康の瀬名への思いを踏みにじる言葉で始まりました。家康に側室を持たせるよう瀬名に勧めるあっけらかんとした物言いも「国のために全てを打ち捨てよ」と根は同じです。


 於大の人生は、政略結婚で松平家に嫁ぐことに始まり、政略によって離縁され、そして政略によって再嫁しました。幸い、久松長家は好き良人でしたが、常に国のために翻弄され、その都度、覚悟を決めてきました。謂わば、自身が体得した戦国時代を弱い者が生き残るための術を彼女は告げていたに過ぎません。
 それを結果的に実行し、国と家臣と領民を守ってきた家康は生き残り、大成はしたものの、ここに来るまでに多くのものを失ってしまいました。特に瀬名と信康の死は、於大にも強い哀しみを残すこととなりました。家康の哀しみがそれ以上であることは、於大にもよくわかったはずです。


 於大の思わぬ言葉をカメラは家康を手前、於大を奥に配置する形で捉えています。焦点は発言する於大にあるのですが、焦点が当たらない手前の家康がピンボケしているにもかかわらず、泣きそうな顔になっているのがよくわかり、またその顔を隠すように釜に向き直り、母に背を向けています。母の思わぬ労いに一気に思い出が吹き抜けたのかもしれません。

 於大はその背中に「されど、それが正しかったかどうか…戦を怖がって逃げ回っていた頃がそなたにとっては一番…」とまで声をかけて、声を詰まらせます。次のショットで、カメラは於大目線から見える家康を捉えるのですが、寂し気な背中を見せながら、顔はやや斜め上に向いています。表情は見えませんが、おそらく涙が流れないようこらえているのでしょう。

 そう、家康はいつからか、こうやって本心を隠し、辛い決断もさも平然を装って話せるようになっていったのです。於大の「一番…」の後の言葉は、きっと「自分の心に正直だった」などの言葉でしょう。しかし、於大の叱咤がそんな素直で優しいだけの彼を変えてしまった…その一端になってしまいました。


 でも、「戦無き世」であれば、もう我慢する必要がないはずと思う於大は「もう捨てるでないぞ、そなたの大事なものを。大切にしなされ」と今こそ自分の思う通りに生きてよいのだと声をかけます。息子が抱えてきた多くの哀しみが報われて欲しい。主君の母ではなく、一人の母として最期に案ずるのは息子の幸せなのです。

 しかし、そこでカメラの焦点があった家康の表情は、於大の言葉に返事をすることはなく、なんとも言えない表情を浮かべています。家康は知っています、天下人とは今まで以上に思うままに振る舞えないことを、そしてどんなに思い尽くそうとも周りからは嫌われるものだということをです。
 加えて、今のこの平穏がかりそめであることも家康は半ば気づいています。いつか、豊臣家と雌雄を決するのではないかという予感もあります。だから、家康は今後も「国のために全てを打ち捨て」るのです。

 それだけに「一人ぼっちにならぬようにな」という於大の声かけが、今の家康には追い打ちになってしまうのが哀しいですね。天下人は誰からも理解されない孤独な道ですから。母の優しさを感じつつも、家康は伏し目がちになるより他ありません。


 返事もなく背中を見せ続ける家康に於大もはっとします。息子はもう後戻りできないのだということに気づいてしまいます。ですから、急激に哀しげにそして優しく見守る目つきに変わるのです。
 かえって自分の言葉が彼を苦しめたかもと思う母は誤魔化すように息子の入れた薬湯を口にします。その頬に涙がつたうのが、寂しいですね。「苦い薬だこと」と孤独な道をこれから歩む息子を見届けられない母は、せめて今だけでも苦い薬を飲んで、その気持ちを少しでも共有するしかないのです。母の言葉に家康もぐっと薬を飲み干し、その思いに応えます。




(3)「戦無き世」の政とは? 

 いよいよ、征夷大将軍となった家康は、抱えた孤独と哀しみを感じる間もなく精力的に動き出します。ずっとため込んできたこのときのための様々な夢を形にするときです。

 まずウィリアム・アダムスには、南蛮船を建造させます。第41回のnote記事でも触れましたが、アダムスとの出会いは家康に世界との貿易で日ノ本を富ませるという「戦無き世」における富国策の要の一つです。この場面はダイレクトにあの回とつながっています。

 そして、家康の登用は、外国人に留まりません。ナレーション曰く「新しき世を築くため、戦以外の才に秀いでたる者を抜擢」「若く知恵の優れた者を大いに登用したことで太平の世を担う才能が神の君のもとに続々と集まってきておりました」とのこと。家産的な武家社会ですから、どこまで能力主義であったかは疑問ですが、それでも「戦以外の才に秀いでたる者」を登用し、戦で物を奪い、物を破壊するあり方から、新しいものを築き作り上げるほうへシフトしようとしていることは窺えます。

 また、若い人材が多いことも重要です。家康は、次代を築くのは自分たちのような、戦のみに血道を開けてきた人間ではないと思っているのですね。それは、三成から言われた「乱世を生き延びた貴方こそ、戦乱を求むる者」という言葉への家康なりのアンサーなのかもしれません。


 若さと才能に溢れ、活気づく現場で朱子学を語り、才気走った、頭角を現そうとする男がいます。家康が呼び止めると「あのイカサマ師の子とは思えぬ律義さ」と誉めそやすのが本多正信の子、正純です。「ああなってはならぬとしつけられて参り申した」と言い捨てるその様子からは、頭でっかちな融通の利かなさも窺えますが、おそらく父がいない間、忠世に世話になる中、相当に苦労したのだと思われます。父のようになるな、は父の追放で苦労した母の言葉かもしれませんね(笑)
 そして「父のような不埒な生き方を許さぬことこそ、これからの世でございます」と断言します。武勇も謀略も戦の賜物。それを必要としない時代の訪れを予感させる発言です。

 まあ、もっとも正信のような自己中でのらりくらりとした生き方が許されるような緩さも社会には大切だとは思います。世の中、遊びが効いていたほうが余裕があるものですから。



 そして若く優秀な知恵者たちが集う政と離れた桑名(三重県)で肖像画を描かせているのは、平八郎です。館林(今の群馬県)からわざわざやってきて「まーた書き直させとるのか?」と声をかけるのは榊原小平太康政です。

 「前のは強そうではなかったからな」と応える平八郎は、似ているか否かではなく強そうかどうかを重視し「わしが死んだ後も睨みを効かせるじゃろう」と言います。あきらかにアバンタイトルで槍の手入れでの怪我に、老いを感じたということが示唆されます。泰平の世にやることがあまりなく、時間があることも悩みを深くさせるところでしょう。


 それでも、関ヶ原の論功行賞で西国へと転封された豊臣恩顧の武将たちの見張りとして桑名に赴任した平八郎は、西に睨みを効かせるためにここにおると強気を見せますが、訪問した小平太は「だがな平八郎。我らの働ける世ではないのかもしれんぞ。殿のもとには新たな世を継ぐものたちが集まってきておる…」と寂しげな顔で語りかけます。頭の良い彼は、平八郎より時代の先が見えてしまうのですよね。


 そんな彼の話を聞く平八郎の眼には涙が溜まっています。生涯現役でいたい彼にとって、お役御免は、一番聞きたくない言葉だからです。平八郎の思いは百も承知、それどころか自身も同じ思いだからこそ、小平太は「戦無き世を作る…若く知恵の優れた者たちじゃ。私も秀忠さまに御指南申すのが最後の役目と心得ておる。戦に生きた年寄りは早く身を引くべきじゃ」と話を続け、改めて平八郎の眼を見つめ「お主もわかっておろう」と言います。

 小平太は自身の寂しい気持ちを共有できる平八郎の元へ訪れたという感じのようです。


 認めたくはなくとも、自分の死後に備えて肖像画を描かせている平八郎は内心はわかっています。だからこそ「関ヶ原の傷がもとで死んだ直政は上手くやりおった…」と羨ましがります。直政は於大よりも半年ほど前に亡くなっています。征夷大将軍になり、新しい政をする家康を見ることは叶いませんでしたが、少なくとも寂れていく武人の哀しさは感じることなく逝けたと、老臣二人は思うのです。「そういうことじゃ」と応える小平太共々、寂し気な背中が二つ、桑名で並びます。


 さて、場所は変わって江戸、孫の千姫が家康に豊臣家が怖いから参りたくないと泣きついてきます。母親の江もすぐに駆けつけます。自分に泣きつく孫娘につい緩み、目を細める家康は「そなたの母の姉さまの家じゃ」から大丈夫と大嘘をつきます(笑)しかし、返す千姫の「だから恐いのです」に家康も流石にぎょっとします。まあ、彼は茶々が油断ならないことを知っているからです。千姫は続けて、「母上さまがいつも茶々お姉さまは恐い恐いと。何をお考えかわからぬと」と泣きじゃくります。

 「え?まじか?」という顔をする舅の家康に「おほほほほ」と慌てる江は「この子ったら。母のお姉さまはもう一人おってな。二番目の初というお姉さまはとてもお優しい。その方も側にいてくれるはず」とその場を取り繕います。
 いやはや、仲良しで描かれる浅井三姉妹なのに、「どうする家康」の茶々は妹すら怯えさせる存在なんですね。阿茶の「おっかないおなご」という茶々評が妹に裏打ちされるとは予想外でした(笑)茶々の恐ろしさに気がつかぬのは、世の男ばかりで女性たちは結構、見抜いていますね。それにしても、嫁が茶々の恐ろしさを知っていることを今更、気づいた家康の驚いた顔も可笑しいですね。

 ともあれ、家康としてはまだ新しい政が始まったばかりの今、豊臣と事を構える気はありませんし、まだ共存の可能性を探るためにも千姫に嫁がせなかればなりません。家康は緩む顔を抑え、「何かあれば、この爺がいつでもかけつけよう」と約束し、なだめます。後年、この安易な約束を家康が守れるか否か、それはこの先の展開次第です。お市のとき同様、またも約束破ることになるでしょうか。

 なにはともあれ、様々な局面を見せつつも、まずは豊臣との強調路線を取りながら、家康は新しい「戦無き世」の政を始めます。



2.家康の老い~円熟と焦り~

(1)秀忠叱責に見える家康の君主論

 千姫が嫁いで次の正月、大阪城では恒例の秀頼の背を柱に記しています。その健やかな成長ぶりに「めでたいことじゃ。我ら豊臣家中一つとなって秀頼さまを支えてゆこうぞ!」と檄を飛ばすのは、茶々の幼馴染み、大野修理です。

 家康暗殺計画で流罪となった彼ですが、実は関ヶ原の戦いでは東軍につき福島正則勢として参戦。事後処理では、秀頼と茶々は三成らと無関係とする家康の意思を伝えるため、その使者として大阪城へ派遣されています。こうして許された彼は茶々の信任厚く、先の発言、その言葉に湧く一同の様子から、豊臣恩顧の将たちの首座となっていることが示唆されています。


 更に「そなたが戻ってきて心強いかぎり」と微笑む茶々の口ぶりも芝居がかった常と違い甘やかで素直です。こうした信頼の深さが、秀頼は修理と茶々の不義の子という噂を立てられる理由かもしれません。真偽はわかりませんが。



 さて、周りにわいわいと祝福される大阪城の若君と対照的な描き方をされるのが徳川家の後継者、江戸城の秀忠です。そわそわしていた彼は、家康が着いたと知るや腰低く「お待ちしておりました」と丁重な挨拶をします。彼にとっては偉大すぎる父ゆえに腰が引けた感があります。

 しかし、家康、軽く無視してそのまま素通りすると、その兄、秀康に「お主もきておったか」と嬉しそうな顔をします。スルーされ家康を追う秀忠の目は心なしか寂しげです。期待される優秀な兄と差し置かれてしまう自分との差は歴然としているように見えます。

 因みに家康に「父上に政務の御指南、賜る機会と存じまして」と返す秀康の受け答えは、彼の非凡さ、如才なさが窺えます。関ヶ原の戦いの折、家康の名代として会津征伐を任されるだけ武勇といい、出来の良さはお万の教育の賜物でしょう。


 ひとしきり挨拶を済ませた家康は、ようやく秀忠に振り返ると「しかとやっておるか?」と聞き返します。自分に番が回ってきた彼は「お千は大丈夫でしょうか?」と大阪城の様子を聞きますが、聞き方がいけません。本田正純の大丈夫との答えに素直に安堵の表情を見せてしまう秀忠に呆れ顔の家康は「真っ先に聞くことが娘の心配か…」とイラつきを隠せません。
 たじろぐ秀忠の「私はただ両家の心配を…」との弁解も火に油を注ぐばかり。あっさり「身内のことしか考えない主君と思われるぞ!」と叱責されます。


 将軍就任前から豊臣家の扱い方に悩み、今また秀頼の成長に勢いを増す豊臣勢を目の当たりにした家康からすれば、秀忠の物言いは甚だ浅はかで視野が狭いものです。
 また、家中の目をはばからず国よりも家族を優先した発言をしてしまう素直さは、人柄としては好ましくとも、将の将たる器としてはいかにも頼りないのです。日々、徳川家と豊臣家の緊張関係は増しているにもかかわらず、息子は現状認識が甘いままの太平楽なのです。


 本拠地江戸を任せる大役を与えたのは、そうした甘さを無くすためだったのですが、どうやら期待外れでした。相変わらずの視野の狭さに失望した家康は、わざわざ秀忠ににじり寄ると「関ヶ原に遅れたときから…何も成長しておらんな!」と激昂します。
 おそらく何か不始末があるたびに関ヶ原の遅参を引き合いに出されて叱責されているのでしょう。必要以上な丁寧な挨拶といい、秀忠から窺えるやや卑屈な態度は、父親がどこで怒るかわからない、何故蒸し返すかわからない困惑から来ているように思われます。


 困惑するまま「精一杯急ぎました」と反論する秀忠の心得違いに、家康は「多くの兵を置いて、己の供回りだけで先を急いだ」と問題点をズバリと指摘します。しかし、それすら理解しない秀忠は「少しでも早くと」と食い下がります。たまりかねた家康は「お前は全軍を率いてこねばならんのじゃ!」と声を荒げます。
 関ヶ原の折、家康は遅参した秀忠と面会しなかったという逸話がありますが、家康の怒りの理由は遅参ではなく、急な行軍で軍を疲弊させたことにありました。つまり、自分が間に合いたいばかりに兵を省みなかったことを将として咎めたのですね。

 つまり、「全軍を率いてこねばならん」の真意は、戦力を戦場に間に合わせることではなく、将として兵を慰撫して過不足なく動かす用兵を指しているのです。
 となれば、自己中心的な振る舞いで兵を疲弊させた関ヶ原での行為と、国の情勢を見ることなく娘の心配をしたこととが、全く同じ問題を孕んでいることが見えてきます。


 かつて、家康は三河独立に辺り、妻子救出を優先し多くを死なせました(第9回で正信に私戦と断罪されています)。
 また三河一向一揆でも戦の兵糧を優先し、家臣と民の反乱を招きました(正信と鳥居忠吉に諫言されました)。
 そして、三方ヶ原では心ならずも自分の命を救うために多くの命が散っていきました。
 主君とは実に多くの命を奪って存在しています。それゆえ、せめて自分よりも領民や家臣のことを考えられるようでなければ、彼らから受けた恩を返せません。主君は君臨するのではありません。主君もまた国という社稷(しゃしょく)に奉仕する立場なのです。現在の日本では勘違いしている政治家がごまんといますが(苦笑)


 於大が後悔した「主君たる者、家臣と国のためならば己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ!」という苛烈な君主論は、全てが正しいわけではありません(犠牲になる者を打ち捨てることに平気になる非情さはいけませんから)。しかし、家康は実践の中で悩んで悩んで悩み抜き、時には大きな失敗をしながら、主君のあり方を模索してきたのです。


 ですから、家康の秀忠への叱責は根拠なきものではなく、家臣や家族からの諫言と自身の体験から学び得たものをスパルタ的に伝えようとした結果です。しかし、大切に育てられ、大きな戦を体験することなく生きてきた秀忠には、ただただ理不尽な物言いにしか聞こえません。
 思わず「正信や康政もそうして良いと…」と彼らに責任転嫁してしまい、「人のせいにするな!全てお前のせいじゃ!」と切り捨てられてしまいます。家臣がどういう進言をしようと、それを採択し決断するのは主君の役割ですから、家康の怒りはもっともです。

 後継者の成長に湧く豊臣と後継者の不甲斐なさに嘆く徳川…家康の悩みは深くならざるを得ません


(2)家康の危機感と老境の焦り

 悩み多き家康にとって、心許せるのは長年苦労を共にしてきた平八郎忠勝ら家臣たちだけです。とはいえ、左衛門尉、直政、忠世、半蔵、彦右衛門も既になく、その数は減りました。今、悲壮な決意で家康の前に参じた平八郎も眼病を煩い、ものがよく見えません(蜻蛉切の手入れでの怪我の原因ですね)。


 平八郎の鬱屈に気づかない家康は「お互い年を取ったのう」と笑いかけますが、意を決した平八郎は「殿、戦しか出来ぬ年寄りはもういらぬとお思いならば、包まず申されませ」と老いた無念、時代が変わってしまった哀しさに耐えて切り出します。
 訝る家康に不必要ならば、直ちに隠居すると言いかけたところに小平太までやってきて「榊原康政、生涯最後の諫言と思い、申し上げます」と告げます。
 用件こそ違えど、二人は自分たちの引き際を考えて「なすべきことをなそう」としています。自分たちの思いを秘めながらもまずは家康のために「なすべきことをなす」…これは三河家臣団の強さですが、老いてなおその言動がブレることなく一貫しているのが良いですね。二人がずっとずっと家康を思ってきたことが伝わります。



 三河一向一揆以来、家臣を信じ抜くと決め、小牧長久手で改めて二人に信頼を寄せた家康は二人の唐突さに訝りながらも「ふむ」と話を促し、聞き入ります。このあたりは阿吽の呼吸ですね。
 小平太は「皆の面前であのようにお叱りになるべきではござらぬ。秀忠さまの誇りを傷つけることでございます」と切り出します。彼は正信と共に知恵者として秀忠を指南役です。身近に観察しているだけに、彼の人柄、父を偉大と信ずるがゆえの苦悩も知っているのでしょう。
 また仮にも跡取りになる息子です。公の場で面罵すれば秀忠が継いだ際に彼を軽んずる家臣が出ないとも限りません。既に千姫の無事を伝えた正純の目線はやや小馬鹿にしたもので、描かれないでしょうが家康死後の出来事を匂わせています。家中の示しのためにもよくないと小平太は言うのです。


 更に「関ヶ原のことをいつまでも。秀忠さまに落ち度はないと何度も申し開きしたはず。殿のお叱りようはあまりに理不尽」と叱り方のしつこさにも言及します。榊原康政は秀忠の失態を取りなしたという「藩翰譜」の話を諫言に引っ張ってきましたが、小平太はこれまで秀忠への叱責にずっ耐えていたのでしょうね。
 「殿から見たら頼りなくも見えるでしょう。されど殿とてあのくらいの年の頃にはどれほど頼りなかったか。お忘れあるな」と家康の叱責は傲りがあると言います。最後の「お忘れあるな」では、言いたくないことを言う辛さが表情から滲んでいます。
 また家康が昔を忘れているとすれば、自分たちと歩んだ苦労を彼が忘れてしまったということになりますから尚更につらいことです。家康を信じてきた小平太が、これを今際の際として言わねばならぬと思い詰めたさまがひしひしと伝わりますね。


 一通り聞いた家康は静かに「だがわしにはお前たちがいた」と返します。彼は小平太の言うことは百も承知、そしてかつての自分を忘れたわけではなかったのです。寧ろ、それを覚えているからこその言動であると言外にかたります。
 この言葉に、自身を最早、無用と思い込み隠居を申し出ていた忠勝が、はっとして家康を振り返ります。自分は殿に忘れられたわけではないと気づけた瞬間です。家康は「左衛門、数正、鳥居の爺様…皆がわしをこっぴどく叱り続けた…」と続けます。台詞にはありませんが忠世も回想に入っているのが嬉しいところ。

 一瞬、一人、縁側でぽつねんと座り込み悩む秀忠が挿入されます。これは実際の姿であり、また家康がそんな秀忠を想像した姿でもあります。家康は秀忠を思っているということです。そして「あやつのことを誰があのように叱ってくれる?わしは耐え難い苦しみも何度も味わった。あやつにはそれもない」と二代目、しかも信康の悲劇があるゆえに大切に育てられたがゆえの緩い環境を危ぶみます。


 家康の真意と後継者育成の悩みを知った小平太は座敷に座ると「苦しみを知らぬことはご本人のせいではございません。悪いことでもございません」と気持ちに理解は示しつつ「今の若者は」的な発想に釘を刺します。小平太の言葉を引き継ぐように平八郎も「これから時をかけて様々のことを学ばれることでございましょう」と、期待して焦らずゆっくりとで大丈夫だと慰めます。
 環境は本人の資質の問題ではありませんし、またこの先の「戦無き世」を築く上において、苦しみを知らないおおらかさが徳となる可能性があります。戦働きで生きてきた二人だからこそ、その価値がわかるのかもしれません。


 しかし家康は「それでは間に合わん」と即答…更に「関ヶ原はまだ終わっておらん」と続けます。「関ヶ原はまだ終わっておらん」の衝撃的な言葉に流石の勇将二人も目を見張ります。彼らが引き際を考えていたのは、関ヶ原の戦いに勝てたこと、そして家康の「戦無き世」の組織作りを横目に見て、役割が終わったことを内心理解したからです。
 戦に生きた彼らすら、戦は終わったと思っている中、戦嫌いの家康が危機意識を持っていたことは皮肉ですね。既に天下の政という大局を見る立場にある家康は、戦が政治の最悪の手段であることを理解しているのでしょう。ですから、彼以外では正信や阿茶といった政にかかわる謀臣たちが家康の危機感を共有していたでしょう。


 「あれは所詮、豊臣家中の仲違いの戦」という認識は、阿茶を通した北政所の影響もあるかもしれませんが、これは長年の経験、そして秀吉から学んだ政治のなせる業でしょう。小牧長久手の戦いを政治的勝利と同一視したような過ちはもう犯しません。
 「それが静まり、再び一つとなって秀頼殿のもとに集まっておる…今年の正月は大いに賑わったようじゃ」と再び求心力を持ち始めた豊臣家、その中心にある秀頼を危ぶみます。既に家康は、秀頼「殿」と敬称し、石高を減らした豊臣家を一大名と見なそうとしています。
 しかし、他大名と違い、未だに徳川家の支配下にあるわけではありません。また関ヶ原の論功行賞によって石高が増えた豊臣恩顧の大名たちは、西国に転封されますたが、それは西国が豊臣の勢力下にあることも意味しています。


 ただ、まだ大名たちは征夷大将軍の名で命じることができます。ですから「もっと難儀なことは、破れて改易、減封となった家中の多くの浪人があぶれておる」と徳川家に恨みを持つ者たちが不穏な動きを始めていることを指摘します。
 家康の発言を証明するように挿入されるのは、かつての武田のスパルタ修練所よろしく凄まじい訓練を行い「家康を逃すな!」と檄を飛ばす九度山の真田信繁の姿です。信繁は九度山の猟師らを鍛えて大阪に参陣したと言われますからその再現と思われます。


 驚く平八郎は「食い扶持は与えておるはず」と問いますが、家康は無情に、淡々と「奴らが求める食い扶持はただ一つ…戦じゃ」と彼らは今も変わらず戦乱を求め、弱肉強食の論理にしか生きられないと断じます。平たく言えば、秀吉が作った欲望の天下一統に生きた武士たちの慣れの果てがあるのです。勿論、これは関ヶ原後の家康の辣腕の政が生み出した歪みでもあります。

 徳川家の天下を認めない豊臣家、そして家康を恨む数多の浪人…豊臣のシンボル秀頼の成長により豊臣家の求心力が高まれば、両者が結びつくのは必然でしょう。今回の序盤、自身が征夷大将軍に着くことで住み分けができると考え、千姫の輿入れを遺命どおり実行した家康ですが、その太平の模索も限界と判断したのだと考えられます。
 ですから、それを受けた小平太は「二つに一つ、大人しく豊臣に天下を返すか、それとも…」となるのです。


 しかし何故、豊臣に返す選択がないのでしょうか。家康が権力に固執しているのでしょうか?史実的にはそうした野心かもしれませんが、本作は卑しい野心によるものではありません。 
 「戦無き世」の実現、それは先に逝った多くの人々と願いと恨みを引き取る強さ、平和を叶えようとする意思、将来へのビジョン、具体的な方策と実行力が必要です。乱世を力ずくで収めた家康が矛盾を抱えながらも、それを志向できるのは、今の彼が長い年月を堪え忍び必要な条件を揃えたからです。


 だから彼は早速、将軍就任後、戦以外の才を持つ若い世代を次々と登用したのです。彼らこそが「戦無き世」を作るからです。家康に出来るのは、戦働きでは才を発揮できない彼らに活躍の場所を与え、環境を整えることです。後は彼らに任せることです。信長や秀吉、あるいは師とした今川義元や信玄たちの有能さと誤りを見てきた家康だからこそ、その境地にいられるのです。
 そして、それは芽吹きつつあります。


 では豊臣家はどうでしょうか。秀吉から受け継いだ財産も人材もあります。しかし、それはそこに渦巻く数多の野心と欲望と不和のため、三成ほどの志の高さを持っても呑み込まれてしまいました。呑み込まれないのは大阪城を出た北政所くらい。まさに伏魔殿です。
 そのような大阪城は旧態依然とした戦国の弱肉強食の理論がのさばります。ですから、「戦こそが求める食い扶持」と信じる浪人たちが自然と集まるのです。また、秀頼さえ成人すれば自然と天下は豊臣のものとなるという安易さには、将来のビジョンは漠然としたものでしょう。古い戦国の体質のままである豊臣家では、「戦無き世」を築くことはできないのです。

 既に徳川家と豊臣家の道は分かたれ、「戦無き世」は徳川家が引き受けるしかありません。しかし、徳川家の天下は未だ安定していません。いつでも乱世へ逆戻りです。秀頼の成長を恐れ、秀忠の不甲斐なさを叱責するのはそれが主たる理由ですが、もう一つあります。
 それは家康自身が老いているからです。「お互い歳を取ったのう」の言葉は、既に多くの家臣を天命で失ったことを自覚するからです。その事実は、自分の生命もいつ終わるかわからないということです。ですから、いつ自分が死んでも、豊臣家に対応できるように秀忠を鍛え上げなければならないのです。時間との勝負、老いの焦りが、秀忠への苛烈な叱責の裏にはあるのです。


 何にせよ、手をこまねいているわけにはいきません。自分の生きているうちにやれることは全てやっておかねばなりません。どれだけ手を汚し、血塗られ、人から恨まれようとも…
 そのためにも股肱の臣には付き合ってもらわねばなりません。早急に片付けるには、信頼のおける彼らが不可欠。ですから、「平八郎、隠居など認めんぞ!小平太もまだ老いるな、まだ!」と二人の肩をしっかり叩き「お前たちの力がいる」と期待するのです。

 この期待に老兵は去りゆくのみと感じていた二人は一気に昔に引き戻されると不適に笑い、小平太は「手の焼ける主じゃ」と言い、応じる平八郎は「全く…いつになったら主君と認められるやら」と憎まれ口を叩き、家康共々笑いだします。心はまだまだ若い三人、夢を追い続ける誓いはこの笑いで十分なのですね。


(3)秀忠の可能性~戦無き世を長続きさせる術~

 長年の仲間でもある家臣と話したことは家康の気持ちをほぐし、ある方針を固めさせます。やはり、家康は長年築いた人の和に助けられていますね。

 家康の御前で平伏する秀忠に家康は再び、関ヶ原を蒸し返し「秀忠、関ヶ原の始末、誰のせいじゃ?」と問いかけます。先ほど叱責されたばかりですから、答え方は分かっています。しかし、心の底では納得しかねる秀忠は、家康の真意に気づかないまま渋々「私の落ち度にございます」と答えます。そんな秀忠の回答を褒めもせず「そうじゃ、そなたのせいじゃ」とにべもありません。


 しかし、今回の家康は上から見下ろすような傲岸な態度を取りながらも、秀忠を諭すよう話し始めます。「理不尽だのう…この世は理不尽なことだらけよ…わしら上に立つものの役目は、いかに理不尽なことがあっても、結果において責めを追うことじゃ」と叱責の理由を語ります。それは、自分のこれまでの経験に裏打ちされた助言です。

 今川家を裏切る決断も、三河一向一揆の失敗も、信長への臣従を誓ったときも、三方ヶ原の大敗も、瀬名と信康を死なせることになってしまった判断も、信長の暗殺を諦めたときも、秀吉へ降ることを決めたときも、そして江戸への移封を受け入れたことも、全てにおいて家康は人のせいにしたことはありません。それによって向けられる負の感情も、自身の無念と後悔も全て自分の責任としてきました。


 その判断は結果として誤ったものとはならず、徳川家を生きながらえさせました。しかし、家康はそのことを驕ることはありません。多大な犠牲を払ってきましたし、また家臣たちの勇躍でようやく薄氷を踏むように生き延びられたのですから。全ては家臣たちのおかげだったのです。その家康の気持ちは、三河家臣団が解散した小田原の夜の盃(第37回)で表現されています。

 ですから、家康は続けて「上手くいったときは家臣を称えよ。しくじったときは己が全ての責を負え」と言うのです。家臣たちに支えられている自分を忘れてはならない。彼らが安心して活躍できる環境を整え、彼らを信じて仕事をさせてやることが大切になってきます。そして、その成果は褒めて、労うのです。
 一方で失敗したときは、彼らを起用した自分のミスとして、彼らを庇い守ってやらねばなりません。そう、指揮官のできることは、いざというときに部下たちのために腹を切ることだけです。まあ、責任を感じるだけで責任を取らない昨今の政治家やどこぞのスポーツの監督とは大違いですね。


 ともかく、主君がとことん家臣を慈しむことこそが、徳川家の強さだと言えるでしょう。それは、信玄にも、信長にも、秀吉にもなかったものです。唯一、その理念は今川義元から学びましたが、それを実践し自分のものとしたのは、家康と家臣団たちです。

 謂わば、家康は実体験から学び取った徳川家の主君論を秀忠に伝授したのです。家康は最後に「それこそがわしらの役目じゃ。わかったか。」と告げますが、このとき主語を「わしら」としています。家康と秀忠、二人だけに任された役目であることが強調されています。家康は、はっきり秀忠を後継者として任じたのです。

 秀忠の誇りを傷つけてはならないという小平太の諫言を受けた家康は、彼の誇りを再度、立て直させること、そして地位が人を作ることを信じて「征夷大将軍…一年のうちにそなたに引き継ぐ。用意にかかれ」と命じます。満足気な小平太の表情が良いですね。

 型どおり「はっ…」と答え平伏した秀忠は、一瞬、間をおいてから「えっ?!わしが将軍?」と驚愕します。思わず結城秀康に目をやったのは、優秀な兄だからです。その優秀な兄は心得たもので、すぐさま「おめでとうございます」と弟に臣下の礼を率先して取り、家中の意向を一つにしてしまいます。

 家康の意図を計りかねる秀忠は「わしを選んだのは、兄が正当な妻の子ではないからか」と小平太と正信に問います。「殿が左様なことでお決めになるとお思いで?」と優しく否定する小平太の言葉を引き継いだ正信は「才があるからこそ秀康さまを跡取りにせんのでございます」と家康の真意をずばりと言い当てます。

 そして、「才ある将が一代で国を栄えさせ、で、滅ぶ。我らはそれを嫌というほど見て参りました」とこれまでの栄枯盛衰に思いを馳せるようなふりをしながら、胡坐をかきます。今川家は義元を失ったこと(本当の支柱は寿桂尼と太原雪斎ですが本作では出てこないので)で、武田家は信玄を失ったことで、織田家は信長を失ったことで、そして今また秀吉を失ったことで豊臣家が凋落を見せようとしています。
 そんな事例にピンとこない秀忠に、小平太は「才ある将一人に頼るようでは家中は長続きせんということでござる」と噛み砕きます。


 そして正信、遂に「その点、あなた様は全てが人並み。人並みの者が継いでいけるお家こそ長続きいたしまする。言うなれば、偉大なる凡庸!といったところですな」と、褒めているんだか、けなしているんだか、まったくわからないようなことを、さも賢しげに言って見せます。
 そのあまりにも身もふたもない物言いに、小平太はちゃんと「何より、於愛さまのお子さまだけあっておおらか。誰とでも上手くお付き合いなさる。豊臣家とも上手くおやりなりましょう」と家康にすら出来そうにないことが出来るかもしれないとフォローします。
 正信と小平太、知恵者の二人もなかなか、阿吽の呼吸ですね。おそらく、普段の指南もこうした感じなのでしょう。


 そして正信、「関ヶ原でも恨みを買っておりませんからな。間に合わなかったおかげで」と茶々を入れますが…当の本人は自分の凡庸を自覚するだけにこの説明に妙に納得すると「たしかにそうじゃ。かえって良かったかもしれんな!」と破顔します。どこまでも能天気な二代目征夷大将軍(予定)に顔を見合わせる正信と小平太が微笑ましく、笑ってしまうのが良いですね。

 本作の秀忠の良さは、周りを不快にさせることのない朗らかさなのでしょう。それは次代の「戦無き世」にこそ相応しい心構えになるのではないでしょうか?


 もう一点、正信と小平太の小平太の言葉で重要なことは、「才ある将一人に頼らない」家中の作り方です。それこそが、家康の推し進める「戦以外の才に秀いでたる者」「若く優秀な者たち」を多く集めて登用することなのです。秀忠は彼らが活躍できる環境を整え、彼らの言葉に耳を傾け、政を行えば良いのです。
 これもまた、三成が挫折した合議制に対する家康なりの回答だと言えるでしょう。次代の凡庸なる将軍と若く優秀な才ある者が信頼関係を築き、新たな国造りをする。家康の辛い経験とそこから得たものから、生み出される新しい政の輪郭がようやく見えてきたと言えるでしょう。


 しかし、秀忠を後継者に任ずることは、天下の政は徳川が行うということを明示することでもあり、それは当然のことながら新たな火種を生みます。しかし家康は、そのことは織り込み済みでしょう。寧ろ、彼ら次代のために、手を汚す覚悟を決めたからこその判断と思われます。



3.そして最終章の幕が開く

 果たして、豊臣方はこの事態に怒り狂っています。大野修理は送られてきた書状に目を通すと「秀忠どのに譲ったということは、天下は徳川家が受け継いでいくということに他なりません。これは明らかな太閤殿下との約定破りじゃ!」と憤り、皆に我らに大義ありと周りを鼓舞します。

 茶々の怒りが収まらないのは、秀忠の将軍就任について「図々しくも秀頼にも挨拶に参れと言ってきおった」からです。まあ、秀忠は秀頼の舅なので挨拶にいく建前の理由は立つのですが、勿論、改めて豊臣は一大名に過ぎないという主従の関係をはっきりさせようというのが家康の魂胆でしょう。今回の物語の構成上では、序盤の戦勝報告の意趣返しとも取れます。


 豊臣家にとっては理不尽な申し出に、その場の諸将な「何と!」と同調する者たちもいますが、豊臣恩顧の主流をなす藤堂ら七将は、それに同調せず、集団の後ろのほうで家康の権勢が確かになった事実を仕方なしと静観しているのが印象的ですね。
 元々、欲を求めて集まった豊臣恩顧の大名たちです。利にある方に付くのが彼らの処世術。朝廷を巧く操る家康に権勢が移ったとあれば、利がどちらにあるか見極めなければなりません。豊臣方は既に一枚岩ではありません。


 さて、家康たちの書状に対し、茶々は「無論断った。秀頼を行かせるくらいなら秀頼を殺して、私も死ぬとな!」と豪語し、諸将を更に鼓舞します。この茶々の発言は逸話を踏まえてのもので、結局、家康側が折れ六男・忠輝を大坂城に派遣して収集します。
 しかし、家康、ただでは終わらせません。このときを利用して、近衛信尹を関白に推挙し、豊臣家という公家が再び関白に就くことを封じてしまいます。更に次代の家臣となる井伊直孝と板倉重昌が叙任されるよう働きかけ、先に述べた「戦無き世」の政も着々と進めています。
 つまり、豊臣家に揺さぶりをかけ、名より実を取ることで事を収めたということです。おだを上げる茶々よりも、老獪な家康のほうがはるかに調略においては狡猾と言えるでしょう。



 さて、場所は再び桑名、相変わらず肖像画の描き直しを続けさせている平八郎に再び、訪れた小平太が「しかし何度描き直させるんじゃ」と呆れます。冒頭と同じことを繰り返していますね。ですから、平八郎は「もっともっと強そうでなければ」と前年よりもさらにこだわりを強めています。最早、別人となり果てたとその絵を描く絵師も平八郎は全く観ず、自分の考える強そうな武将の顔を一心不乱に描いています。そして、いよいよ、有名なあの本多忠勝像の肖像画の絵へと近づいていっています。


 しかし、平八郎が気になるのは小平太の来訪理由です。小平太の「ただ方々に挨拶に回ってるだけじゃ」「意味はない」と答えますが、長年、ライバルとして、相棒として功を競い合った身、瞬時に察した平八郎は「どこが悪い?」とズバリ問います。観念した小平太は「腸じゃ…」と無念そうに語ります。一説には彼の死因は腫れ物の悪化だとも言われますが、ここは不治の病だということにしておきましょう。

 武将たる者が病に倒れるのは名折れです。まして、家康に頼まれたばかり。泣きそうな顔になりながら「たわけ、まだ老いるなと言われたろうが」と叱責し、彼につかみかかります。
 しかし、逆にその指に彼にしてはあり得ない傷があることを小平太は見咎めます。自身も小平太と似た状況であること認めた「迂闊なことよ、戦で傷一つ負わなかったわしが…笑いぐさじゃ」と自嘲します。
 最期の別れに来た小平太でしたが、「老いには抗えん。無念だが我らはここまでのようじゃ。役目は終えたのじゃ」と慰めます。無論、自分自身に言い聞かせるためでもあります。


 互いの老いを知った小平太は長居は無用と去ろうとしますが、平八郎は呼び止め、彼に槍を渡します。自身も庭に出て構えると「わしは認めん!殿を守って死ぬのがわしの夢じゃ!老いなど認めん!見届けるまで死ぬな!」と無茶振りを言い出します。
 この万感の思いを告げるとき、「主君を守って死ぬのがわしの夢じゃ」と言っていた彼が「主君」ではなく「殿」、つまり家康にちゃんとなっているのが良いですね。とっくの昔に家康を主君と認めている意地っ張りの平八郎が、朋友の死を前に本音を駄々洩れにさせてしまいます。

 還暦を越えて、なお少年のような平八郎がかわいいですね。そんな友の素直な思いに、自らも気持ちを若返らせた小平太は、長年決着をつけていなかった一騎打ちに臨もうとします。


 小平太が平八郎の思いに応えようとしたところから、本作のメインテーマが奏でられる演出が巧いですね。今回のオープニングアレンジは、老境の家康の円熟を示すものでしたが、それに対して、本来のメインテーマが持っているイメージは家康と家臣団、彼らの青春~壮年期なのでしょう。老い、病を得たとは思えない二人の機敏な動きとメインテーマがマッチしています。
 この勝負で最初に相手の槍の穂先を折ったのが小平太なのが良いですね。彼は平八郎の武勇には勝てないと知略も併用する道を選びましたたが、それでも研鑽を積み、いつか平八郎に勝とうと思っていたのではないでしょうか。そんな強い意思が感じられました。


 結局はいつもどおり勝負はつくことなく終わります。縁側に座る小平太は、平八郎に家康を主君と「認めておるのであろう」と確認するといつからかと問いかけます。平八郎、あの日を思い換えるように笑顔で初陣の後の大樹寺であると答えます。にやりと笑う小平太も同じだと答えます。

 あのとき、松平昌久に追い詰められた家康は開き直ると「わしは寅の年寅の月寅刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ。そなたたちのことはこのわしが守るんじゃ!」といきり立ちます。家臣を守ろうとする心根と追い詰められたときに発揮された底力に圧倒された平八郎は、身震いを一つすると「道を開けい!」と大音声をあげました。印象的だったあの1シーン、やはりそれだけの意味を持っていたのですね。そして、堂々と敵勢の中を歩んでいく家康の後ろ姿をじっと見つめ、家臣になることを決めたのは小平太です。

 二人とも家康にほぼ一目惚れだったわけですね。二人は家康の中に確かに武神を見たのでしょう。もっともこのとき、家康が絶叫した寅年は家康も知らない嘘でしたが、しかし、そこに積み上げられた彼らの家康への信頼、忠義、友情、それに応えた家康の思いといった彼らのやり取りと真心は本物です。於大のついたなりふり構わぬ嘘は、家康と家臣をつなげ、彼らの人生を豊かにしたのです。嘘から出た誠…というものがあるものですね。


 二人はあの日の家康を昨日のように思い返しながら、「まだ見ていたいのう…あの背中を」と言います。その目は完全に若き日に戻っていますね。そして、平八郎は一言、「睨みをきかせてな」とつけ加えます。家康の本質は「泣き虫弱虫洟垂れ」です。いつでも逃げ出す可能性があることを数ある家臣の中で平八郎だけがよく知っています。でもその彼の中だけに自分の追いたい背中があるのです。

 だから、自分の見たい背中を見続けるため、いつかその背中に追いつくため、彼の夢をかなえるため、天下を取らせるため、そして、最後は彼を守って死ぬために、いつも彼を叱咤激励していたのが平八郎です。その言葉を聞き、小平太はようやく肖像画について彼が言った「わしが死んだ後も睨みを効かせるじゃろう」の意味に気づき「そういうことか…」と呟き、顔を見合わせて笑いあいます。

 敵を睨むのが主ではなく、家康をいつまでも叱咤激励すること、そして、自分が死してなお、家康を独りぼっちにしないこと、それだけのために肖像画を描かせていたのです。死んでなお、家康と共にいる平八郎はいつか家康を守って死ぬことを願っているのかもしれません。


 それにしても、肖像画と山田裕貴くんの顔は似ても似つかないわけですが、それを逆手に肖像画を何度も描き直しさせた逸話を利用して、こんな美談を生み出したのは脱帽でした。そして、この話を見たら、あの肖像画を観るたびにその眼差しに、山田裕貴くんの平八郎の眼差しを重ねてしまいそうですね(笑)


 こうして瀬名から彼女に替わって家康と共に「戦無き世」を見届けるよう託された平八郎と小平太…二人の男たちは鮮やかな笑顔を画面に残し、秀頼の刻まれる背丈と共に流れる年月の中で先に逝きます。ときを経た1610年、家康は自室で平八郎の大きな肖像画を見つめています。その思いはようとして知れませんが、様々な思いが去来しているのではないでしょうか。

 平八郎の希望どおり、家康が挫けぬよう叱咤もしているでしょう。また去っていった友を懐かしみつつ、彼らのためにも役目を果たそうと決意も新たにしているでしょう。また、多くの家臣がいなくなった寂しさを紛らすような面もあると思われます。


 そこに阿茶と正信が、評定の時間が来たことを知らせに来ます。それなりに年月重ねた様子の二人からは口々に豊臣方の不穏な動きの報告があります。総じていえば、徳川が上方から去るや否や、すぐに大阪が浪人どもを集め、施しをし、戦支度を始めたということです。その自信は、豊臣家の嫡男、秀頼がそれに相応しい年齢になったということを意味します。


 大阪では秀頼の成長に目を細める茶々が「どこからどう見ても見事なる天下人たることよ」と言い、家臣と嫁の千姫に同意を求めます。そして、その言葉こそ、彼女にとっての反撃の狼煙です。母に誉めそやされた上背の高い貴公子、秀頼の「さあ、宴の時じゃ」は何を意味するのでしょうか。単に正月の宴をするのか、それともこの世を巡って覇権を争うことを宴と呼ぶのか、茶々の影響がどれほど現れるのか、気になるとことです。

 そして対する家康の「時が満ちた」も同様です。豊臣との決着をつける時を意味しているのは間違いないでしょうが、それが豊臣家を滅ぼす時なのか、それともまだ共存を探っているのか、それは次回に持ち越されるようです。ラストカットは本多忠勝肖像画のアップです。いかなる覚悟と決心であるにせよ、彼の睨みが効いている家康は後戻りすることなく前に進むしかありません。



おわりに

 関ヶ原の戦い以降の徳川家を支えるのは、戦に生きた武将から政治家、官僚型の家臣へと変わっていきます。世代交代も兼ねた移行期だけに、「狡兎死して走狗烹らるる」の言葉どおり、戦働きの武将が居場所を失う悲哀が伴います。そのため本多忠勝や榊原康政の晩年もどこか寂しい印象を残します。


 しかし、「どうする家康」は懸命に生きた彼らを蔑ろにはしません。最後まで生き残った彼らが、最期を迎えるそのときまで、殿の隣で戦おうとしたとし、あくまで生き抜いた様を描きます。これまでに描かれた彼らの物語が回収され、つなげられたとき、その生き様が見えて来るという構成が巧いですね。
 死に様ではなく生き様…これが「どうする家康」流というところです。だからこそ、彼らの想いは、今なお生きたものとして、家康へと受け継がれ、彼の中で熟成され、その政に活かされていくことになるのでしょう。


 それが輪郭を見せ始めたのが、関ヶ原の戦い後の10年です。この10年で繰り返された多くの別れには、描かれたものだけではなく、結城秀康、お葉など他にも多くいるのです。そして、彼らは皆、家康の夢に想いを託して、去っていきました。彼らのためにも、そして将来を生きる人々のためにも芽吹いた「戦無き世」の政を次代へと確かにつないでいかなければなりません。家康の道を踏み固めるのが、この第44回だったとも言えるでしょう。


 それにしても、天下人の道は孤独ではあるけれど、家康は真の孤独ではないのかもしれません。何故なら、平八郎の肖像画のように、いつも彼らの想いは家康の側にあり、見守っていますから。だからこそ、家康は、次代のために、その手を汚すことになる覚悟ができているように思われます。
 彼らの想いを自覚する限り、どんなにつらい道となろうとも、家康もまた自分の役割を全うすることになるでしょう。

   また次代に継ぐという点においては、第44回はもう一つテーマがあったと思われます。それは「親の愛とは一方通行」ということです。「於大→家康」、「家康→秀忠」、「茶々→秀頼」…どの親の愛も深いですが、その思いは子どもには容易に伝わりません。
   つまり、次代に継ぐことは、受け継ぐ次代の問題でもあります。となると、今後の焦点は家康だけでなく秀忠にも当てられるのではないでしょうか。

 さて、次回は今川氏真が登場します。晩年の氏真が描かれることは初めてではないでしょうか。おそらく、第12回の氏真との対話が回収され、これまた家康に何かが託されることでしょう。どんなドラマが生まれるか、まずはこれが楽しみですね。

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